消えたもの 見出したもの
育児放棄とか児童虐待の描写がありますので、ご注意願います。
中学生が行方不明になった、という話はぱっと広まった。常日頃、平和で何事も起きないのが常態と化しているこの地域では、稀にみる大事件である。
「それが、いついなくなったのかわからないんだってよ」
こういう事態が起こると、関係なくともやたらと張り切る人種というのがおそらく何処にでもいる。
くつろぎ庵でも、普段は訪れない人達が声高にしゃべくっていた。家にこもりがちの老人にとっては、他人事のトラブルは目新しい娯楽でしかないらしい。
「中学生でしょう、親は何してたんだよ」
「あー、その親がどうもね、ろくでもなかったらしいよ。子どもがいなくなってるのにいつからいないのかわからないっていうんだから」
こうした客や母から聞いた限りでは、その子どもは育児放棄にあったらしい。母子家庭でその母親は近隣の繁華街で水商売をしていた。自宅は以前同級生達が言っていた辺り、親族の家に住み着いていたが、近所付き合いは全くなかったようだ。
そもそも近所と言える程他の住民がいないこともある。子どもの世話を、と訴えに訪れた教師も愕然としていたらしい。耕作放置された田畑の間に、廃屋のような建家がぽつりぽつり残る、学区の中でも特異な地域。だからこそ明らかに世話されない子どもがそのまま放置され、親に意見する程お節介な隣人もいなかったのだ。
実際のところ、無断欠席が続いたため教師が家庭訪問するまで、母親は子どもがいなくなっていることに気づかなかったという。子どもの行方は杳として知れず、何の痕跡も見つからないままだった。
生きていることが楽しいと思ったことがない。それが彼の正直な思いだ。
『彼』はちょっと複雑な家庭に育った。父親は物心つくかどうかの頃に離婚したが、大声で怒鳴る怖い人、というおぼろげな記憶がある。母も、一人では子どもを育てる能力がなかったのかもしれない。父親がいなくなってからは、殆ど放置された。周りが五月蝿いと学校にあがるまでは保育所に預けられたが、家ではまともな食事も与えられず、「ほけんじょ」とか「しやくしょ」とかから人が来て「みんせいいいん」のおばさんが毎日のようにやって来た。食べ物や服もくれたりしたが、結構お説教もするのを煩わしがって母は彼女が来るのを見計らって外出し、ある日大喧嘩になった。
母は結局夜逃げ状態で地方へ移ったのだが、彼が学校に入れた辺り、最低限の手続きは取れていたらしい。幸い、と言っていい、学校給食がなければ多分彼は餓死していた。
引っ越したのは母の親族が独居老人で、その生活の面倒を見るためだった。母の叔母だと言う老婆は口数少なく、殆ど会話を交わした覚えもない。それでも、彼女が家のことをしているうちは最低限食べさせてもらえた。母は夜の仕事を始め滅多に帰らず、もちろん彼の世話もせず老婆が気に掛けてくれたのだ。
その大叔母が寄る年波も重なって入院してからは、彼の生活はますます困難を極めた。母は週に一度帰ってくる程度、その間の小遣いは大概千円札一枚。朝夕の食事を賄えば無くなってしまう、学校の給食費や教材費の請求があるとそれを頼むのも一苦労だった。
一度だけ、同級生に誘われて寄り道した。珍しく、母が一度渡したことを忘れて再度お金をくれたので少し余裕があった。たまにそういうことがあって辛うじて救われていた。
級友達と仲が良いわけでもなかった。同世代の子ども達と会話が成り立たないし、薄汚れて遊ぶ気力も無くぼんやりしている彼を他の子どもは気味悪がる。幸い攻撃的な子どもは教諭始め周囲も注意していて、また同じタイプ同士でやりあうことが多く、あまり苛められることはなかった。
その日、大人しい子ども達は降って湧いた自由時間にはしゃいで声をかけてくれたのだろう。彼もまた、自由時間と思いがけず得られた小金に少し気分が浮き立っていて、その誘いに応じる気になったのだ。
連れて行かれた小さな店は、お菓子を全部食べていいというのが有り難かったし、同行した彼等を知っているというおばさん達が他のものまで食べさせてくれたのはとても嬉しかった。
けれどその日、彼が珍しく温かな腹を抱えて眠っていたらいきなり蹴飛ばされた。寝ぼけ眼を瞬けば、見知らぬ大人が大声を上げている。一瞬訳がわからなかったが、その男の傍らで母がケラケラ笑っていてようやく状況が飲み込めた。母が、男を連れ帰ってきたのだろう。
そうなってから自宅も居場所がなくなり、彼は学校の図書室や近所の図書館でぎりぎりまで時間をつぶした。どちらも夕方、8時には閉館してしまう。下手に家にいると、怒鳴られたり蹴られたりするので、帰るのが遅くなる。そうすればそれを咎められて殴られ蹴られる、ますます帰宅は遅くなった。
その日も、図書館の閉館時刻になってようやく家路についたものの、足取りは鈍く。
行く宛もないままひたすら歩き続け、辿り着いたのは何時か同級生が連れていってくれた店の前。既に店内の明かりは消えているし、そうでなくとも店に入る勇気はなかった。第一一銭も所持金がない以上、店には入れない。その辺りはかつて世話してくれた民生委員のおばちゃんに叩き込まれている。
ただそれでも立ち去りかねてふらふら近くをうろついていると、店の奥に微かに浮かんでいた明かりがちかちかっと瞬いた。思わず足を踏み出しかけて、くらりと目眩に襲われる。
空腹やストレス故の目眩はしょっちゅうだった、けれどそれとは違う眩惑にへたりこんだ彼はそのまま気を失ってしまった。
誰かに、『帰りたいか』と問われた。けれど何処へかえることができるのだろう。自分には帰る場所などないし、待つ人もない。悲しく寂しいけれど、それより諦めの方が強かった。
同じ声に『だったら違うところへ行くか』と問われた。それに頷いた記憶は朧気にある。どこか、違うところでやり直すことができるなら、と。
「……い、おい!」
揺さぶられてびくっと目が覚める。咄嗟に腕で頭を庇って体を丸める。
殴られるか蹴られるか、と強張らせた体にしかし衝撃は来なかった。
恐る恐る顔を上げれば、こちらを覗き込んでくるのは日に焼けた男だった。体を縮めた彼に困ったような顔で眉をひそめている。
「子どもか……一体何処から来た?」
「えっ……」
言われて気づいたが、全く何も思い出せない。ただ、今まで自分がいたのは全く違う場所だったことだけは確信できた。
本筋に関係ない部分ですが、全然進まない……