第40話 動く
それから学校で、谷田貝さんと話す機会がなくなってしまった。
私は、あの離れのトイレにも、もう行っていない。
クレーンゲームのバイトをすることも無くなった。
思えばホテルで谷田貝さんが自力で景品をゲットしていた。もう彼女は、そこまでの力をつけていた。
教室で谷田貝さんを見つけても、目が合う前に、逸らしてしまう。おかしいな。
でもそうしてしまうんだから仕方ない。
三週間が過ぎた頃だった。明比さんが、日本に戻ってきた。喫茶店の看板がOpenになっていた。
話を聞くと、もう少し海外にいるつもりだったけど、一文なしになったらしい。
むしろ無事に日本に戻れて良かったと安堵していた。
明比さん、ドジだなぁ。でもどこか安心している私がいた。
これで喫茶店のバイトも再開できる。
谷田貝さんとの繋がりが薄れる度に、私は夢を見ていたんじゃないかと思うようになった。
彼女と離れていても、なんのアクションもない。もちろん、私からも動くことはなかった。
——月が綺麗な夜だった。
私は寂しさから、自分の耳に新たなピアス穴を開けた。安全ピンを突き刺す瞬間、痛みを通り越して、気持ちが良かった。
あぁ。私、生きてる。爪の間に血が入り込むのを、ただ黙って見ていた。
そういえば、今までピアスを開けたのも、気分が落ちていたことが多かった気がする。
そもそもハッピーな気持ちで耳に穴を開ける人なんているのだろうか。
少なくとも正常な判断では、そういうことはできないだろう。
谷田貝さんとしたキスは、気の迷いなのだろうか。
八宵さんが谷田貝さんに耳打ちした言葉が頭から離れなかった。
私には友達がいない。
これまで学校では、私がしたいように振る舞ってきた。移動教室は一人、二人組になってという授業はその時に余った人と組んだ。
本当に、寂しくも何ともなかった。
それと、私は常識がわからない。
谷田貝さんにキスをしたのは、タブーなのではないか。頬までは許されたことでも、唇は裁かれる。
八宵さんが間に入ったことで、取り返しのつかないことをしている感覚が私を襲った。
谷田貝さんが悪く言われるのは耐えられなかった。とても。
私のせいで彼女の評判を落とすのだけは避けたかった。
安全ピンの先は、血で赤く濡れていた。もう一度だけ、耳たぶに針を刺した。
これは私の罰だ。
谷田貝さんがピアスを褒めてくれた。気まぐれでも、とても嬉しかった。
「谷田貝さ……ん」
声が掠れていた。薄暗い部屋の中が、私の匂いと声でいっぱいになる。
離れている時、人は愛の深さを知るのだろうか。
そんな真心も知らないような年齢だけど。
「好き……」
想いが溢れてしまった。
「谷田貝さんが……好き……」
言葉にすると、本当に彼女を好きなんじゃないかと身体が熱くなった。
——あのホテルに泊まった日。
私は喉が渇いて夜中に目が覚めた。谷田貝さんと松園さんは確かに眠っていた。
カーテンから漏れる月明かりが、谷田貝さんを怪しく照らしていた。華奢で力を入れたら折れてしまいそうな女の子。抱き枕に、とさかちゃんを抱えていた。これがないと彼女は眠れないらしい。
私がクレーンゲームで取ったものだった。
谷田貝さんの髪を触ると、少し汗ばんでいた。髪の毛が数本まとわりつく。ずっと絡みついていて欲しかった。
「好き……」
あの時も、不意に言葉が溢れた。しまったと思ったものの、抑えられなかった。
誰にも聞かれていない言葉は、私だけのものだ。
キスをしたあの日から私は少しおかしい。
この想いを一人でどうにかしたかった。だけど、苦しくて仕方なかった。
人はなぜ好きな相手に想いを打ち明けるのだろう。
どうせ相手を縛っておくことなどできないのに。
だけど、今なら気持ちがわかる。
居ても立っても居られないから人は想いを告げるのだ。内側から自分を突き動かす衝動がある。他に何も欲しくなくなる。自分を生贄に捧げてしまいたくなる。
恥を恐れていたらきっと何もできない。
谷田貝さんにキスをした後、彼女はスロット台へと移動した。追いかけたら、可愛い笑顔を見せてくれた。
今、味気ない世界なら、私が動くしかない。待っていても何も変わらない。
耳たぶを触ると、じんじんと痛んだ。
私が谷田貝さんに、とさかちゃんを取ろうかと声をかけたあの日のように——。
そのままゆっくりと横になって、深く目を閉じた。安全ピンは床に転がり落ちていた。
◇
次の日の学校。1時間目が終わった後、私は久しぶりに離れのトイレに向かった。
相変わらず、誰も人がいなかった。なのに、清潔だから、意味がわからない。
きっと掃除担当の人が、マメなのだろう。
谷田貝さんは、今日もみんなの注目の的だった。男子の視線を独り占めにしている。
彼女を好きになって、彼女に好意を持っている人が直感的にわかるようになった。こんなのいらない特技だ。
谷田貝さんは、今日このトイレに来るだろうか。
来なかったら2時間目の終わりにまた来れば良い。
トイレの窓越しに空を見ると、雲がゆっくりと動いていた。
きゅっ。
背後から上履きを擦る音が聞こえた。
胸が跳ねる。振り向くと——。




