第38話 2回目
柔らかい。甘い。
あれ。私……。
すぐに取り返しのつかないことをしている感覚に襲われた。
だけどそれは怖いものではない。底なしの穴に落ちていくような、浮遊感のあるものだった。
谷田貝さんが、目をぱちくりと開けた。唇は離さない。なぜわかるのかというと、私は一度も目を閉じていないからだ。
どれくらいそうしていただろう。一秒だった気もするし、十秒以上そうしていたようにも感じる。
飴の袋が手からこぼれて、床に落ちた。カサっと小さな音が耳に届いた時、谷田貝さんは私から離れた。
「今……」
谷田貝さんは、唇を手で押さえていた。頬が真っ赤になっている。
「ねぇ、谷田貝さん」
「なに?」
「ごめ……」
咄嗟に謝りそうになった。友達の境界線を一気に飛び越えてしまったから。
だけど思いとどまる。私は謝るようなことをしたのだろうか。
「……なんでもない」
「なんなのよ」
気の利いたことさえ言えなかった。胸に手を当てると、バクバクと心臓が鳴っていた。
私は思っていたよりもすごく緊張していた。
「……2回目のキス」
谷田貝さんは、ゆっくりと確かめるように、そう言った。
「……やっぱりバスの中で、私に、その……したの?」
「……うん」
彼女は逃げも隠れもしなかった。むしろ、腰に手を当ててふんぞり返っていた。
「あのね。浜松の寝顔が可愛いから、ついキスしちゃったの」
なんて優美な顔。自信満々。
あなたの方が可愛いよ。
「——あなたの方が可愛い」
あっ。うっかり声に出していた。
「知ってるわよ!!」
おでこを軽く押されてしまった。
すとんと壁に背中がつく。
「……寝込みを襲うなんて最低」
「……そっちこそ。飴を言い訳に使ってキスしたじゃん?」
そんなつもりはなかったのに。
だけど口の中にはまだ飴が残っている。ラズベリー味が憎い。
「……あのさ、キスしたいです。はいそーです。って私たちの関係で、言えるわけないじゃん」
「……まぁ。そうかもね?」
納得されてしまった。
私、今、すごいこと言わなかった?
「——浜松は、言い訳が必要なのね」
谷田貝さんが私の短い髪に触れた。触り心地がよさそうに、するすると手で弄んでいる。
いつの間にか、耳が丸出しになっていた。
彼女は私の髪を収めるべきところに置いた。
「……うん。ねぇ。やっぱりさ、あたしも飴……食べたい」
なんて切なそうに言うんだろう。
「今、床に落ちたやつ拾うからさ、待って」
「えっ。そんな汚いの嫌よっ!」
でも、これしかないし。どうしよう。
顔を挙げると、谷田貝さんと目が合った。
「そこにあるのちょうだい」
正真正銘、彼女は私の口を指さした。
はっ?
ラズベリー味が口いっぱいに広がる。
「やたが……」
唇を塞がれた。一瞬のことだった。
顎を持ち上げられて、自然と視線が上を向いた。
不意を突かれたら、自分のじゃない湿ったものが口に入った。谷田貝さんの舌だった。
気づいたら、腰に力が入らなくなった。椅子に手をつけて、かろうじて、今の姿勢を保つ。
何これ何これ何これ。
頭がついていかない。舌がさらに深く入り込む。
息継ぎするように口を大きく開けると、谷田貝さんは、さらに私に近づいた。
あっ。もう。なんか……。やば。
どろどろに溶かされそう。
彼女に心の奥まで入り込まれたようだった。足が震える。
「あまーい」
谷田貝さんは、私から離れると、頬に手を当てて、はしゃいだ。
カランと歯に飴が当たる音が聞こえた。
……。
奪われてしまった。いろんな意味で。
私の中は空っぽだった。
だけど、嫌な気はまったくしない。満たされているからかもしれない。
「えへへ。この飴舐めたら、キスしたくなるのもわかるかもっ」
谷田貝さんは、両手でそっと私の頬に触れた。まるでクレーンゲームのよう。
離す気はないらしい。
唇にキスされる——と思ったら鼻に触れた。塗れた感触から、甘い匂いが伝わってくる。
「はままつー。今めっちゃ面白い顔してるよー」
「誰のせいだと……」
「ふふっ。あたしのせいでしょーね」
甘い雰囲気にめまいがしそうだった。
……もうどうにでもなれ。
そう覚悟を決めたはずなのに。
谷田貝さんは、パッと私から手を離すと、そのままゲーセンの奥に向かった。
えっ。
目で追うと、スロット台に座っていた。呑気に鼻歌なんかも歌っている。
はっ?
——谷田貝さんの気持ちが読めない。
……今からキスする流れだったでしょうが!
期待を裏切られて、ぽっかり穴が空いたようだった。
クレーンゲームからチープなBGMが聞こえる。
——このまま去ってもいいはずだ。いつもの私だったらそうしている。
部屋に戻ろうか。外にでも行ってみようか。
だけど。でも、
私は自然とスロット台に引き寄せられていた。谷田貝さんの隣は空いている。
彼女はコインを入れて、遊んでいるような様子はなかった。じっと止まった7のマークを見つめている。
「……隣いい?」
そう聞くのが礼儀だろう。
谷田貝さんは、まだ飴を舐めていた。頬が動いているから。
私の目を穴が開くほど見つめている。
「——やった。浜松、あたしを追いかけて来てくれたね」
「えっ」
次の瞬間だった。
谷田貝さんが、背を伸ばして、私の唇に触れた。ふにっと、優しく一つになるように。
安堵感。私はゆっくりと目を閉じた。
まだ温泉にすら入っていないのに。すごく安らいでいた。
どうかこんな時間がずっと続けばいい——。
「ひっ」
谷田貝さんから、小さな声が漏れた。
えっ。と思って唇を離すと、なんと後ろにクラスメートの石井さんがいた——。




