第37話 浜松の香りで、じゅーぶん
「やったー! うれしぃー!! あたし取れたよ! 浜松、見ててくれた?」
「……うん。谷田貝さんすごいね」
「お嬢様ー! 成長しましたねー!」
松園さんが谷田貝さんの頭を、犬を撫でるように、わしゃわしゃした。
「ん、んもー! やめてよぉー!」
「うっ。うっ。うぅ……。お嬢様、こんなに立派になって……」
松園さんは目に涙を浮かべている。大袈裟な。
だけど、私も感極まる思いがした。
……そういえば小町ちゃん、このホテルのゲーセンは景品がめちゃくちゃ取れやすいと言っていた。
私は黙って拍手をした。
世の中には、わざわざ口に出さなくていいことが山ほどある。
「で、お嬢様ー! その飴どうするんですか?」
「うん……」
谷田貝さんは景品を手に取ると、モジモジした。
「んっ」
「えっ?」
「浜松にあげる」
彼女の顔は赤面していた。こっちを見ない。
「お、お礼は?」
「ありがとう……」
勢いあまって、飴をそのまま受け取ってしまった。
何か言おうとしたら、谷田貝さんが遮る。
「い、言っておくけど、いつものお礼だからねっ!」
クレーンゲームを教えてくれるお礼ということだろうか。
谷田貝さんの気持ちが嬉しくて、そのまま袋をぎゅっと握る。
「ねぇ……」
「何?」
「食べないの?」
「えっ」
「その飴。今……」
彼女は、凛とした姿勢のまま、"キスしたくなる飴"を指差す。
「……部屋に帰ったら食べようかなって思ってたの」
「い、今、食べなさいよっ」
「……」
「あたしの飴が食べられないっていうの?」
「そういうわけじゃないけど」
売り言葉に買い言葉。
断る理由もなく、私は袋を開けた。恐る恐る飴を取り出してみる。
「……」
ハート型にできていた。普通サイズよりもなんだか大きい。
思わず唾を飲む。
ええい。
飴を口に入れると、桃風味が舌全体に広がった。松園さんの予想通りの味だ。
まずくはない。だけど、めちゃくちゃ美味しいっていうわけでもない。
コロコロと飴を舐めるところを、二人はじっと見ていた。
「ど、どうですか?」
何故か松園さんが緊張していた。
「えっ?」
「キスしたくなりますか?」
——ならないよ。
至って普通の味。スーパーで売ってるやつと同じ。
っていうと、何もかも終わってしまう。
それで良かったのに。
……なんでかな。
浴衣を着て、ホテルにいるからかな。非日常に胸がときめいてしまう。
「……なる」
そんなことを思わず口にしていた。
松園さんは目を大きく見開いた。
谷田貝さんは微動だにしなかった。いつも通りにも見えるし、固まっているように見える。気持ちが読めない。
「……ちょ、どこ行くんですか!?」
松園さんは、すたすたとゲーセンから出ていった。あっちはエレベーターがある方だ。彼女は吸い込まれるように消えてしまった。
……誰か、説明してほしい。
突然、現れたり、いなくなったり忙しい人だ。
「——ねぇ。それ本当?」
くるりと振り向くと、谷田貝さんが、私の手に持つ飴の袋をじっと見ていた。
「——キスしたくなる、ってやつ」
「……」
そんなわけない。まやかしだ。
私も同じように、パッケージを見る。
原材料名には砂糖、水飴と書いてあった。
キスしたくなるのは、きっとプラシーボ効果だ。
媚薬みたいなものは入っているわけがない。
頭では冷静な判断ができているはずなのに、私はとうとう何も言えなかった。
慣れない浴衣で疲れてしまった。
白いプラスチックの椅子が目に入る。そっと近寄り、なだれ込むように座った。
谷田貝さんとは、距離ができた。1秒ごとに時間が経つほど、先ほどの質問には答えなくてもいいような気さえしてくる。
……もしも。もしも。
谷田貝さんが隣に座ってくれたなら——。
私も勇気を出せるかもしれない。
彼女はふーんと、浅いため息を漏らした。いつもよりも気高い。
谷田貝さんの、浴衣姿は綺麗だった。目が離せない。貴重。
学校の男子だって、きっと見たことがないはずだ。
そんな彼女を、私は今独り占めにしている。クレーンゲームから流れる陽気な音楽が耳を通り抜けた。
すぐ近くにある両替機には、赤ランプがついていた。
谷田貝さんが一歩、私に近づいた。
……本当はこうなることが、心のどこかでわかっていたのかもしれない。
だけど、彼女は私の隣には座らなかった。真正面。またこの距離だ。
鼻と鼻が触れそう。谷田貝さんの目は輝いていた。
バスの光景が、フラッシュバックする。ここでは車内の揺れもない。弾みで、間違いが起こるはずはなかった。
谷田貝さんの瞳の中に私がいた。まるくて、なんだかおかしい。
きっとこのことに、彼女は気がついていないだろう。
「……ラズベリー味? 良い香りね」
くんくんと鼻を揺らして、谷田貝さんが嘲笑った。そっか。これは桃味じゃないんだ。
飴を舐めてる私の方が、正解を知っているはず。だけど彼女がそういうなら、ラズベリー味なんだろう。
「……谷田貝さんも舐める?」
「あたし? いらないわ」
「そう」
「浜松の香りで、じゅーぶん」
目を閉じて、幸福に酔いしれているみたい。
彼女の細くて長いまつ毛が、はらりと頬に落ちた。
あっ。
——その瞬間、私は谷田貝さんの唇に触れていた。




