第35話 不意打ちの
「起きたんだ」
「……」
バスの車体がまた傾いて、彼女は咄嗟に座席の手すりを掴んだ。
なんで立っているの?
よろめいたまま、ちっとも私の目を見ようとしない。
「……あっ。もう少しで乗り換えだ」
彼女越しに、バスの次停留所表示器が目に入る。
次で降りなくてはいけない。寝過ごさなくて良かった。
谷田貝さんは大人しく、私の隣にすとんと座った。
「……?」
「な、何よ」
「なんか遠くない?」
さっきまでピッタリくっついて座っていたはずだった。
なのに今はこぶし一つ分、距離があった。
「べ、別にいいでしょ!」
「……いいけど」
無言の間が広がる。
窓から見える景色は木だらけで、大きく変わり映えがなかった。
紅茶を飲むと冷たかった。
車内には、私たちしかいない。
「次は時月です。お降りのお客様は——」
「はーい!」
谷田貝さんが子どものように手を挙げた。席を立つ。
目と目が合わない。本当におかしい。
コーヒーも座席に置いたままだ。まったく。
私は彼女のコップも回収し、荷物を持って、後を追った。
停留所に降りた後、けたたましい蝉の鳴き声が耳に入った。
「えいやっと!」
谷田貝さんは、近くにあったベンチに腰掛けた。お嬢様らしからぬ掛け声だった。
足を広げていて、目のやり場に困る。
「……ねぇ」
「うん?」
彼女は無垢な顔をして、私を見上げる。
純粋な瞳に吸い込まれてしまうところだった。
「——さっき私にキスしてたでしょ」
蝉の鳴き声がハッと止んだ。
世界がなくなってしまったかのようだった。
谷田貝さんのツインテールが小刻みに揺れていた。
——さっき、バスの中、彼女が私の真正面に立っていた。
おかしい。
あれ。と思って、唇を触ったら潤っている感触がした。
私はリップクリームなんてつけないのに。
指で触ると、微かに色がついていた。これって。
谷田貝さんのリップの色とまったく一緒だった。
まさかそんなわけない。私は軽く混乱していた。
だけど、バスを降りた後、えいやっとと言った彼女が親しみやすくて、私は勇気を出して、つい聞いてしまっていた。
蝉は鳴いていたのかもしれない。
自分の心臓の音で、周りの何もかもが消えてしまっていた。
私の中には谷田貝さんしかいなかった。
「し、してないよぉ」
彼女の声が裏返った。目が泳いでいる。
「……」
「浜松。な、なんか夢でも見たんじゃないの〜?」
谷田貝さんは暑そうに、手を扇みたいにしてパタパタと仰ぐ。
じーっと彼女を見た。穴が開くくらいに。
谷田貝さんは「あぅ」とか「えっ」とか、か細い声を出している。
こんなに一人のひとをじっと見つめるのは初めてだ。
ミルクティー色をした、さらさらの髪。リボンで結んだ二つのツインテール。目元にラメが入っていたから、谷田貝さんが薄くメイクをしているのがわかった。
可愛い。
……暑さのせいかな。
めまいがした。
後ろの草むらからカサっと音がする。見てみるとバッタが1匹飛び跳ねていた。
緑色のそれを見た時、何故かとさかちゃんを思い出した。
目の前にいる谷田貝さんの瞳はきゅるきゅるしていて、まるでぬいぐるみのようだった。
「ぶふっ」
彼女が吹き出す。
私は谷田貝さんの両頬を右手で掴んでいた。柔らかいほっぺが沈んでいる。
「はままつ、ぬぁにしてる……の」
困惑するのも当然だろう。
突然、友達が身体に触れているんだから。
でも私だって、恥ずかしさと、もどかしさで、どうにかなりそうだった。
クレーンゲームのようにゲットした——なんては言わない。
もう少しだけ力を入れる。
「うぅ……」
谷田貝さんをぎゅっと掴んだところで、気持ちがスッキリした。
「……へっ?」
私は手を離して、彼女に背中を向けた。
「ばか」
小さな声で悪態をついた。聞こえただろうか。
聞こえてほしいから言葉にしたのだ。行動にはすべて理由がある。
遠くの方からカラフルなバスがやってきた。車体には虹が描かれている。まるで幼稚園バスだ。
でも、きっとあれが、私たちが次に乗るバスなんだろう。直感がそう言っていた。
バスは案の定、停留所にゆっくりと止まった。
……助かった。
私は後ろも見ずに、バスステップに足をかけた。
動揺していたから、利き足とは逆の左でいった。足がグネっとなる。
——もうホテルにつくまで、谷田貝さんと目が合うことはなかった。




