第26話 ひかる
目の前に迫る谷田貝さんの顔に、ただ視線を奪われていた。
「可愛い……」
「えっ」
失言だ。
私はきっと熱に浮かされている。
こんなこと言うはずじゃなかった。
穴があったら入りたかった。
「……浜松に言われると、本当に自分が美少女みたいに思えてくる」
谷田貝さんの長い髪の毛が私の頬をくすぐる。こそばゆい。
彼女はいまだに私から離れようとはしない。
むしろ、そこがベストポジションと言わんばかりに、すっぽり収まったままでいた。
谷田貝さんの耳は真っ赤だった。可愛くて、つい手を伸ばすと、ハッとしたように彼女の瞳が揺れた。
その後、ゆっくりと唇を閉じて、私に顔を近づけてきた。
えっ。何。どういうこと。
言葉にはならない叫びが、胸の奥へと広がっていく。
——まるでキスされるみたい。
力の抜けた私は、谷田貝さんを押し除けられなかった。
いや、しなかったと言った方がいいかもしれない。
いつのまにか、私は目を閉じていて——。
「お、お嬢様ーー!?」
「!!」
「!?」
「……と、芽流ちゃん!?!?」
突然、叫び声が聞こえてきた。
声の主を見ると、ドアの前で呆然と突っ立っている松園さんがいた。
眼鏡がずり落ちそうになっていた。
とっさに私は、起き上がった。
「いて」
「ひゃっ!」
谷田貝さんと、おでこがぶつかった。思考停止しそう。
「な、何をやられていたんですか?」
松園さんの質問に、私は答えられなかった。
違うんですなんて、言い訳もできなかった。
松園さんはペタペタとクレーンゲーム台の前まで来た。
じーっとガラスの中の私達を見ている。
「松園、ノックしてよ……」
声を発したのは、谷田貝さんだった。
頬をぽりぽりとかいている。
「しましたけど!?!? お二人が夢中になってるから、聞こえなかったんだと思いますけど!!」
「……」
「……」
またしても私達が黙る番だった。
谷田貝さんに夢中になりすぎていて、物音なんて少しも耳に入ってこなかった。不覚。
「……っていうか、ガラスがめちゃくちゃ曇ってますよ! お拭きいたしますね! ……二人とも、早く出てください!」
松園さんの勢いに飲まれて、そのままクレーンゲームの台から出た。
ケーキのような甘い空気感も何処。
もう、いつもの私達に戻っていた。
松園さんはどこからともなく、水が入ったバケツと雑巾を持ってきた。
いそいそとガラスを拭いている。よく見ると、エプロンもつけていた。
最初、彼女はお手伝いさんっぽくないと思っていた。だけど、こういう真面目なところを見てしまうと、谷田貝家にきちんと仕えている人だと実感せざるを得ない。
「はい、綺麗になりましたよ」
程なくして、松園さんの手が止まった。
「……ありがとうございます」
「……まったく。お嬢様ったら、芽流ちゃんとピンポン玉のクレーンゲームを極めるんだーって言ってましたよね?」
床に落ちた水滴を雑巾で拭いながら彼女は言った。
谷田貝さんを見ると、唇を噛み締めながら、下を向いていた。
そうだったんだ。
「——なのに、ラブホ代わりにしないでくださいよ! 神聖なクレーンゲーム台を! なんなら、すぐそこにふかふかのダブルベッドがあるじゃないですかー! そこでしてくださいよー!」
松園さんはとんでもないことを言う。
「ち、違うぅぅ! そんなえっちなことしてないもん!」
「どうだか! 不純異性交遊はいけませんよー」
「不純でも、異性でもないもんー」
いやいや、そのツッコミはズレてない?
確かに、私と谷田貝さんは異性ではなく同性。んっ?
今の行為は不純ではないなら——。
考えすぎたら頭が痛くなってきた。
私が一歩後ずさると、ふにっと柔らかい感触に触れた。
振り返ると——小さい女の子がいた。
えっ。誰?
黒髪のロングヘアーで、幼稚園の制服?を着ていた。
どうやら半開きのドアから入ってきたらしい。
……あれ、"似ている"。
直感的にその子のことがわかりかけた時——。
「……だれ?」
少女はか細い声で言った。
「えっと。浜松芽流です……」
流れから、自己紹介をしていた。
圧倒的なオーラに押されてしまう。
「あー。海里じゃん。おかえり! 幼稚園から帰ってきたのー? 今日も楽しかったぁー?」
谷田貝さんが、その少女に向かって、笑みを浮かべている。
「その方は、ひかるお嬢様の妹さんですよ」
二人を見ていたら、松園さんがそっと耳打ちをしてくれた。やっぱり。
以前、谷田貝さんは、10歳ほど歳の離れた妹がいると言っていた。
"海里"ちゃんは、顔立ちから立ち姿まで谷田貝さんの面影があった。
だけど、彼女は大人っぽく伸ばした黒髪、姉はというと、かわいいツインテール姿だ。
そのギャップ感が、なんとも面白くて愛らしかった。
谷田貝さんは、海里ちゃんをぎゅーっと抱きしめている。
背中越しに小さな少女は、私から目を離さなかった。
「……」
一歩だけ近寄ってみた。単なる好奇心だ。
「!!」
そしたら、谷田貝さんの腕をすり抜け、一目散に、どこかに駆けていった。
あっという間のことだった。
「ありゃりゃ。海里ってば。……ごめんねー。あの子、人見知りしやすくてー。家に知らない人がいたからさ、驚いちゃって逃げちゃったのかも」
「……」
少し悲しいけど仕方ない。
私だってきっと、家に自分より大きな知らない人がいたら、固まってしまう。
しっかり逃げることができた海里ちゃんは賢いくらいだ。
「……その、海里ちゃんは、いつもこの時間に帰ってくるの?」
「うん。あの子は習い事いっぱいしてるからねー。今日は何もない日!」
そうなんだ。
「……谷田貝さんも習い事とかしてるの?」
私と同じように部活には入ってないみたいだけど。
「あたしは、なーんにも! ……ねぇ。浜松。あたしの名前、もう一回言ってみてよ」
「?? 谷田貝さん……」
何かおかしなことを言ったかな。
彼女は変なところに着目した。
不服そうに唇を突き出している。
「ねぇ。今会ったばかりの海里は下の名前で呼んでさー。あたしのことは名字呼びじゃん?」
それは……。
「なーんかちょっとジェラシーかも!」
谷田貝さんは軽く頬を膨らませた。
でも考えてみればおかしな話なのかもしれない。
海里ちゃんより付き合いの長い"谷田貝さん"のことは、名字にさん付けだ。同い年なのに。
でも、海里ちゃんのことは、さすがに"谷田貝さん"とは呼べないだろう。
6歳にさん付けをする高校生って、少しマヌケだ。
だけど、どちらも"谷田貝さん"って呼ぶことになるなら、私がこんがらがってしまう。
……。
「ひかる……?」
谷田貝さんの肩がピクっと上がった。




