第八章 初めての暴力
秋の雨が降り続く午後、実験棟の一室で、少年は窓の外を眺めながら鉛筆を握っていた。課題として与えられた理科の演習問題は、すでに半分以上終わっている。それでも手は止まり、彼の視線はどこか遠くをさまよっていた。
「集中しろ」
背後から声が落ちてきた。高宮だった。
少年は肩をすくめ、机に広げたノートを閉じた。
「ねえパパ、ぼくはどうしてここに閉じ込められてるの?」
数日前から繰り返される問いだった。だが今日の口調は、従来の疑問ではなく、明らかな挑発を含んでいた。
「閉じ込めてなどいない」
高宮は抑えた声で答えた。
「お前には外の世界より、ここで学ぶべきことがある」
少年はゆっくりと立ち上がり、机を拳で叩いた。
「嘘だ! 外に行かせないのは、パパが怖がってるからだ!」
その瞬間、空気が凍りついた。
高宮の中で抑えていた何かが弾け、無意識に手が動いた。頬を打つ乾いた音が部屋に響いた。
少年は一瞬動きを止めたが、次の瞬間、椅子を蹴り飛ばして突進してきた。小さな体で全力をぶつけ、胸に頭突きを食らわせる。高宮は不意を突かれ、机に倒れ込んだ。
「やめろ!」
押し返そうとしたが、少年は必死に腕を振り回した。拳が頬を掠め、爪が首筋に食い込む。初めて味わう「攻撃」に、高宮は混乱した。
「放せ!ぼくを解放しろ!」
少年の叫びは、まるで檻に閉じ込められた獣のようだった。
力で押し返し、ようやく少年を床に押さえつけたとき、高宮は息が荒く、全身が震えていた。少年は床に縫い付けられながらも、鋭い目で睨み返してきた。その眼差しに、かつてのいじめっ子の顔が重なった。
「……やっぱり、お前は“あの男”だ」
高宮の口から震える声が漏れた。
少年は理解できない様子で眉をひそめる。だが次の言葉は、刃のように鋭く高宮の胸を突き刺した。
「パパはぼくを嫌ってるんだろ?だから閉じ込めてるんだ!」
高宮は言い返せなかった。言葉が喉に詰まり、ただ息を荒げるばかりだった。少年の小さな手の跡が首筋に赤く残り、そこからじわりと熱を感じる。その痛みは、過去の傷を抉り出すかのように鮮烈だった。
やがて少年は力尽き、押さえ込まれたまま涙を流した。
「外に出たい……ぼくはパパの人形じゃない」
嗚咽混じりの声を聞きながら、高宮は胸の奥で恐ろしい確信に達していた。――この子はもう制御できない。いつか必ず牙を剥く。
夜、研究ノートに震える手で書き込んだ。
――「対象が初めて暴力を行使。強い敵意を確認」
――「外界への欲求が抑えられず、支配構造が揺らぎ始めている」
――「今後、従属を強制する手段が必要」
ペン先が止まり、ふと窓の外に目をやると、少年が廊下の暗がりからこちらを見ていた。無言のまま、濡れた瞳だけが光っている。
高宮は全身の毛穴が粟立つのを感じた。――その目は恐怖でも従順でもなく、憎悪を孕んだ目だった。
「やはり……彼の血は甦るのか」
呟いた声は、雨音にかき消されていった。




