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第八十四章 名なき器
――空白。
それは音も色もなく、ただ均質な闇だけが広がる領域だった。
自分の「名」を呼ぼうと唇を動かすが、音は出ない。
思い浮かべたはずの言葉が、形を持たず霧散していく。
名を支えていた記憶の糸が一本ずつ千切れ、
笑い声も、呼び声も、誕生日のケーキに差されたろうそくの光さえも――輪郭を失った。
〈消えた。お前はもう、名を持たない〉
母体システムの残滓が告げる。
胸の奥で何かが崩落する感覚。
痛みではなく、穴が空くような虚脱。
そこに「自分」という像は残っていなかった。
(……俺は、誰だ?)
問いかけても、答えられる者はいない。
名前という鎖を失った瞬間、精神の半分が切り落とされ、虚無の底へと沈んでいった。
呼吸が途切れ、視界は白に塗りつぶされる。
現実に戻るべき「座標」さえ、見失っていた。
名を失った少年は、もはや“器”としての存在に傾きかけていた。




