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第八十五章 声
――空白。
自我の切片は漂い、名を失った器だけが残されていた。
思考はほどけ、感情は色を持たず、ただ機械的な沈黙に沈んでいく。
その深淵のただ中で、かすかな音が走った。
「……おい」
震えるように、小さな声が。
それは機械の残響でも、母体の冷たい囁きでもなかった。
現実の、外部から届く声――。
「おい、聞こえるか……!」
重ねて呼ばれた瞬間、虚無に亀裂が走った。
忘却の霧に覆われていたはずの「呼ばれる感覚」が、確かな衝撃となって胸を打つ。
(……俺を、呼んでいる?)
名を持たぬ器に、誰かが手を伸ばしている。
それは単なる音ではなく、強引に意識をこちら側へ引き戻そうとする「意志」だった。
――白い空間の奥に、わずかな光が差し込む。
闇に浸り切っていた精神が、わずかに温度を取り戻す。
「……戻ってこい!」
はっきりとした叫びが届いた。
その瞬間、虚無に沈んでいた少年の胸の奥で、何かが脈打った。
名を失ったはずの「器」が、再び人間としての輪郭を掴もうともがき始める。




