第五章 揺らぎ
三歳を迎えた少年は、言葉を次々に覚えていった。最初は片言だったが、やがて簡単な文章を話すようになり、質問もするようになった。
「どうして空は青いの?」
「パパ、今日はどこに行くの?」
その無邪気な問いに、高宮征一は返答に窮することが多かった。研究者として科学的な説明はいくらでもできる。しかし、父親として子に語りかける言葉を、彼は持ち合わせていなかった。
「……光のせいだよ」
それだけ答えると、少年は満足そうに笑った。その笑みは純粋で、悪意などかけらもなかった。だが、その顔立ちは日に日に、かつての“彼”へと近づいていた。
――似てきた。
高宮は、ふとした瞬間に背筋を冷やした。頬骨の形、目の輝き、笑う時の口元。それらが記憶の底にある「いじめっ子」の面影を確実に呼び起こしていた。
育児はさらに手間を増していた。保育園に通わせるわけにはいかない。世間に存在を知られることは、致命的なリスクだった。だから彼は仕事の合間に自ら教育も担った。文字を教え、数を数えさせ、簡単な絵本を読み聞かせる。
「パパ、読んで」
夜になると少年は絵本を抱えてやってきた。高宮は一瞬ためらいながらも、読み聞かせをした。声を出して物語を読むうちに、自分がまるで普通の父親のように振る舞っていることに気づき、奇妙な不安を覚えた。
――私は何をしている?これは復讐だろう。なぜ、父親の真似事を……。
そんな葛藤が常に胸を締めつけた。
四歳になったある日、少年は庭に出て、拾った石を高宮に差し出した。
「これ、パパにあげる」
小さな手のひらに乗った石は、ただの灰色のかけらだった。しかし、高宮はそれを受け取ると、なぜか強く胸を突かれるものを感じた。自分のために差し出された「贈り物」など、いつ以来だろう。彼の人生には、孤立と冷笑しかなかった。
夜、石を机の上に置いたまま、高宮はじっと見つめた。復讐のために作った存在から、贈り物を受け取る――その矛盾は、彼の心を掻き乱した。
「……情に流されるな」
自分にそう言い聞かせる。だが、感情は理屈では抑え込めない。
少年の成長は驚くほど順調だった。記憶力も良く、観察眼も鋭い。高宮は時折、彼に簡単な心理テストを試みた。積み木の並べ方、図形の模写、言葉の記憶。いずれも年齢以上の成果を示した。その結果を見て、研究者としての高宮は密かに満足した。
「やはり、素質はある……」
だがその一方で、「この才能が、やがて自分に牙を剥くのではないか」という不安も忍び込んできた。
五歳を迎えるころ、少年はよりはっきりと自我を主張するようになった。食べ物の好みを言い、気に入らないことがあれば頑なに拒んだ。その様子は、かつて自分を支配し、弄んだ“彼”の姿を思い出させる。
「お前は……誰だ」
夜、眠る少年を前にして高宮はまた呟いた。無垢な寝顔と、記憶の中の嘲笑する顔とが重なり、頭の中で入り乱れる。復讐相手なのか、それとも息子なのか。答えは出なかった。
ある晩、少年は夢うつつに言った。
「……パパ、大好き」
その言葉は高宮の胸に深く突き刺さった。父親として呼ばれることに違和感を覚えながらも、否定できない温かさがそこにあった。
だが、彼はすぐに冷徹な理性を呼び戻した。
――情は不要だ。これは復讐の装置だ。
石の贈り物も、無邪気な言葉も、ただのノイズだと自分に言い聞かせた。
しかし、その夜、彼はなかなか眠りにつけなかった。




