第四章 誕生
深夜二時。地下室の冷却装置が規則正しい音を刻む中、高宮征一は一つのモニターに釘付けになっていた。パネルに映し出された数値は安定し、人工子宮内の羊水を模した液体は淡い青色を保っている。心拍に似た微細な振動が確認されると、彼は小さく息を吐いた。
「……成功だ」
その瞬間、五十年以上胸に沈殿してきた怨念が、形を持ちはじめたように思えた。過去の影が、今ここに再現されようとしている。
数週間後、彼は地下室で小さな産声を聞いた。人工的に取り出された赤ん坊は、か細い声で泣き、必死に空気を吸い込んでいた。濡れた身体を拭いながら、高宮は震える指で抱き上げた。
「……お前が、そうなのか」
老いた顔に、複雑な感情が浮かぶ。復讐の対象であるはずの存在を腕に抱えながら、彼は不思議な高揚感と、言い知れぬ安堵を覚えた。五十年前、自分を嘲笑した少年の面影は当然まだない。そこにあるのはただの無垢な赤子だ。しかしその顔を見つめるうち、確かに記憶の中の誰かと重なるような錯覚に囚われる。
養育のための準備はすでに整えてあった。乳児用の哺乳瓶、粉ミルク、簡易のベビーベッド。全て匿名で購入し、宅配で受け取った。彼は外部に一切知られることなく、父親としての役割を演じ始めた。
最初の数ヶ月は想像以上に過酷だった。夜泣きは容赦なく、睡眠は断片的になった。学者としての生活リズムは乱れ、論文執筆も滞った。だが、それを苦痛とは感じなかった。むしろ「苦しみを背負ってでも育て上げる」という行為そのものが、彼に奇妙な充実感を与えていた。
赤ん坊は日に日に成長していった。最初は曖昧な泣き声だけだったが、次第に目で周囲を追い、笑みのような表情を浮かべるようになった。その姿を見て、高宮は思わず頬を緩めることもあった。しかし同時に、胸の奥に冷たい棘が突き刺さる。
――この笑顔の裏に潜むのは、あの少年だ。
そう自分に言い聞かせなければ、感情に飲み込まれそうになった。育児の喜びと憎悪がせめぎ合い、彼の精神は緊張し続けた。
半年が経つと、赤ん坊はつかまり立ちを覚え、意味のない発音を繰り返した。彼は成長記録を細かくノートに書き込み、体重や身長、睡眠時間を数値化した。それは学術的な観察であると同時に、「復讐の進行表」でもあった。
一歳を迎える頃、歩き始めた子供は屋敷の廊下をよろよろと進むようになった。その姿を見ながら、高宮は奇妙な緊張を覚えた。ここまで育ててしまえば、後戻りはできない。この子供が誰であるかを、世界で知るのは自分ただ一人だ。
世間に見せる顔は変わらなかった。学会では相変わらず冷静な研究者を演じ、学生からの質問に答え、論文を査読した。しかし、帰宅すると彼を待っているのは、赤ん坊の泣き声と成長の記録だった。二つの人生を同時に歩むその奇妙さが、彼をますます孤立させていった。
夜、ベビーベッドに眠る子供を見下ろしながら、彼は自問することがあった。
――これは本当に復讐なのか。
無垢な寝顔を見ていると、ふと心が揺らぐ。復讐の道具として見なければならないのに、父親のような情が芽生える瞬間がある。それを否定するかのように、彼は自分を叱咤した。
「間違えるな。これは実験だ。治療だ」
だがその声は、どこか弱々しく震えていた。
赤ん坊が二歳を迎えた頃、初めて「パパ」という言葉を口にした。その瞬間、高宮の背筋に冷たいものが走った。父親として呼ばれることを夢見たことはなかった。しかし現実にその言葉を耳にした時、心の奥底で何かが軋みを上げた。
夜、研究ノートにその出来事を記録しながら、彼はペン先を止めて呟いた。
「お前は……誰なんだ」
紙の上に残されたその問いかけは、彼自身へのものでもあった。




