第三章 秘密の研究所
高宮征一が「研究所」と呼ぶ部屋は、屋敷の地下にあった。先代の住人が医療器具を保管するために掘った倉庫を、彼が大幅に改装したものである。外部から見ればただの古びた洋館だが、地下にはコンクリートで補強された部屋が広がっており、冷却装置、簡易の培養器、監視カメラ、電子ロックまでが備え付けられていた。
資金の出どころは、過去の講演料や学会からの謝礼に加え、匿名口座を経由した株取引だった。研究室の正規予算に紛れ込ませることもあったが、基本的には「自腹」である。老境に差し掛かった彼には家族もなく、財産の行き先を考える必要はなかった。残りの人生を賭けるに足る計画――そう信じて疑わなかった。
だが、問題は「材料」だった。
高宮は長年、海外の学会に顔を出していた。その中で知り合ったあるロシア人研究者から、闇ルートの情報を耳にした。遺伝子解析データや細胞の違法売買は、国際的な規制が敷かれていても完全に封じることはできない。裏社会と科学が交わるところでは、匿名の研究者やブローカーが常に動いている。
数年をかけ、彼は少しずつ必要な情報を集めた。最初は学術目的を装い、犯罪心理学の研究サンプルを求めているように見せかけた。だが、その裏でこっそりと「ある人物のDNA断片」を手に入れたのだ。
――中学時代に自分を最も苦しめた同級生。
偶然の再会を装い、旧友との飲み会に姿を現したことがある。五十年ぶりに会った彼は、腹の出た中年を超え、すっかり老いた「ただの老人」になっていた。だが、高宮の胸に去来したのは哀れみではなかった。握手の際、彼はこっそりと爪で皮膚を引っ掻き、グラスに残った唾液を採取した。研究者として培った癖と執念が、誰にも気づかれない形で働いた。
その微細なサンプルを解析に回し、培養し、保存する。長い年月をかけて、彼は「計画の核心」を形にしていった。倫理委員会も、学会も、誰も知らない。知ってしまえば即座に逮捕、研究人生は終わりだ。だからこそ、全ては秘密裏に進められなければならなかった。
地下室には、培養槽と人工子宮の簡易的な装置が並んでいた。海外から密輸された部品を組み合わせ、廃棄された医療機器を修理して再利用したものだ。医師免許こそ持たなかったが、長年の研究で医学知識には精通しており、必要に応じて闇サイト経由で医療従事者を雇うこともあった。匿名で呼び寄せられる彼らは、金さえ払えば余計な詮索をしなかった。
「学問の発展のためだ」
そう自分に言い聞かせることで、彼は罪悪感を麻痺させていた。しかし胸の奥底では知っていた。これは研究ではなく、復讐のための儀式なのだと。
――自分を地獄に突き落としたあの少年を、この手で再び作り出す。
そして、今度こそ「支配する側」に立つのだ。
地下室の薄暗い照明の下で、彼は無機質なモニターに目を凝らした。培養槽の中で微細な細胞が増殖していく。その小さな塊に向かって、彼は囁いた。
「お前を、逃がしはしない」
言葉の響きは父親のようであり、看守のようでもあった。
日々の研究は慎重に進められた。発育の記録は細かくノートに書き込まれ、データは暗号化して保存した。万一外部に流出すれば全てが終わる。だからこそ、彼は誰一人として信用しなかった。長年の学者生活で得た「社会的信用」は、いまや表の顔を保つためだけに存在していた。
地上の研究室では論文を書き、講義に出席し、社会的な名誉を守る。だが、地下では誰も知らない「もう一つの人生」が進行していた。
時計の針が深夜を告げる。彼は白衣を脱ぎ、培養槽に最後のチェックを行った。パネルの数値は安定している。すべては計画通りだった。
――始まってしまったのだ。
自分だけが知る秘密の生命が、暗闇の中で静かに息づいている。
高宮は無意識のうちに口元を歪め、笑みとも痙攣ともつかない表情を浮かべた。
「これは……必然だ」
その声は地下室の冷たい壁に反響し、やがて消えていった。




