第四十九章 沈みゆく瞳
少年は手を伸ばしかけた。
制御盤の赤いランプは点滅を速め、今すぐにでも止められる距離にある。
――押せば、助かるかもしれない。
その思考が一瞬、頭を支配した。
だが同時に、背筋を這い上がる直感が彼を止めた。
これは、高宮の仕組んだ罠かもしれない。
助けるふりをして、次に利用される……。
少年は、伸ばしかけた指をゆっくりと引いた。
歯を食いしばりながら、目の前の光景をただ見つめる。
培養槽の中で、クローンの身体が小刻みに痙攣していた。
注入される鎮静薬に抵抗しようと、未発達な筋肉が必死に動く。
泡の向こうで、彼(あるいは彼女)の瞳が最後の力を振り絞って少年を捕らえた。
……たすけて。
声にならない声が、再び脳裏に響いた。
だがそれは、次の瞬間――別の感情に変わった。
……にげろ。
その一言に、少年の心臓が跳ねた。
錯覚かもしれない。
だが確かに、その視線には恐怖と同時に「警告」が宿っていた。
「……何から逃げろって言うんだ……?」
少年の呟きは誰にも届かない。
クローンの瞳が、ゆっくりと閉じていったからだ。
やがて動きは止まり、液体の中に静寂が訪れた。
直後、施設のシステムが反応した。
《対象個体の活動停止を確認。異常モード解除。》
警告音が消え、赤いランプが緑に変わる。
重い扉も少しずつ開いていく。
まるで何事もなかったかのように、機械仕掛けの施設は「平常」を取り戻していた。
しかし、少年の中には逆に濃い不穏が残った。
――最後に受け取った「にげろ」という言葉。
それは、高宮の死の間際の言葉と重なり、背筋を氷のように冷やした。
「まだ……終わってないのか……」
かすれた声が研究施設の奥へと吸い込まれる。
残されたのは、死んだクローンと、再び静寂を取り戻した無機質な空間。
けれど、その静けさの裏で――確かに「何か」は続いていた。




