第三十六章 刃なき刃
高宮は息を詰めたまま、壁際に追い込まれていた。
目の前で、少年の片手が確かに動いている。その手は床を探り、何かを指先で探し当てるように、じりじりと這っていた。
「やめろ……!」
声を荒げても、少年は止まらない。
やがて、硬質な音が響いた。
――カラン。
椅子の脚から外れて転がっていた小さな鉄片。ネジのようなもの。
少年はそれを指先でつまみ上げた。
高宮の喉がごくりと鳴った。
たった数センチの金属片にすぎない。刃物でも鈍器でもない。
しかし、彼にとっては立派な「武器」に見えた。
少年はそれを掌に隠すと、わざとらしく咳をして、身体を震わせる。
まだ薬が効いているように見せかけながら、しかし目だけは冴え冴えと高宮を射抜いていた。
「……先生」
囁きのような声。
「……怖いんですか?」
高宮は咄嗟に否定しようとしたが、唇がうまく動かなかった。
否応なしに全身を走る緊張で、声が詰まって出てこない。
「薬を打って、拘束して……監視まで強めて……」
少年の声は震えていたが、それは恐怖の震えではなかった。むしろ冷酷な観察者の調子だった。
「……でも、こうして“ほんの一欠片”の自由があるだけで、あなたは怯えている」
掌の中で、金属片が微かに鳴った。
それは銃声にも似た響きとなって、高宮の耳を打った。
「……黙れ!」
高宮は叫び、机を蹴り飛ばした。だがそれは虚勢にすぎない。
自分でも理解していた。
少年は薄く笑うと、掌をわざと開いて見せた。
鉄片はまだ握られていた。逃してはいない。
――見せつけるために開いたのだ。
「決めるのは僕じゃない」
少年は目を細めた。
「……あなたが、どう崩れるか。それだけです」
高宮は息を荒げ、額から汗を滴らせながら、必死にその場に踏みとどまっていた。
しかし、視線はもう少年の掌から離れなかった。
――それは、刃なき刃。
存在するだけで、人を殺しうる凶器だった。




