第三十章 仮面の沈黙と鋭い牙
薬液が体内で広がる。
少年は肩を小さく揺らし、まぶたを重く垂れ、身体が言うことを聞かないかのように振る舞った。
呼吸は浅く、心臓の音がわずかに聞こえる――だが、その意識ははっきりと、高宮の動きと表情を観察していた。
高宮は机の向こうで立ち尽くす。
「……これで、もう……動けん……」
少年の声はかすれ、弱々しく漏れた。
薬が効いていることを確認したような安堵の表情を浮かべ、高宮はわずかに笑った。
だがその笑顔は、すぐに消える。
少年の目の奥には鋭い光が残っていた。
「先生……あなた、本当にわかってる? 僕は、まだ……ここにいる」
高宮の体が微かに硬直する。
少年はかすれた声で、さらに言葉を重ねた。
「目の前にいる僕は、あなたが“管理してる”と思い込ませただけ。
でも僕の中には、自由も、計算も、すべて揃ってる」
わずかに震える手で、少年は木片を握り直した。
床の金属片も静かに指先に触れさせる。
動かす必要はない。今はまだ心理戦の舞台に留まるのだ。
「僕の弱体化は演技――でも、あなたはそれに完全に騙されている」
その言葉は、高宮の耳に針のように刺さった。
彼の胸は早鐘を打ち、額に汗が滲む。
――完全に支配していると思った相手に、実は逆の主導権が握られている。
高宮は手を振り上げ、注射器を握る手に力を込める。
だが、視線の端で見えた微かな木片の存在に、脳裏が一瞬凍る。
――奴は動かないが、いつでも牙を剥ける。
少年はわずかに息を漏らし、頭を垂れたまま囁く。
「先生……僕を縛ることで、あなた自身を縛っていることに気づいてる?」
その一言で、高宮の理性は微かに崩れた。
拳が机を叩き、震える手が注射器を握る。
部屋の中は静寂に包まれながらも、互いの呼吸と心拍だけが張り詰める戦場となった。
少年は完全に身を委ねていない。
だが薬の効果を逆手に取り、意識が薄れるふりをして、次の瞬間に全てをひっくり返す準備をしていた。
高宮はそのことをまだ知らない。
目の前の“沈黙した弱者”に惑わされ、自分自身の影に縛られたままだった。
檻の中の牙は、まだ隠されたまま、確実に相手を追い詰めていた。




