表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影を継ぐもの  作者: キロヒカ.オツマ―


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/350

第一章 孤独な研究者



 名古屋市郊外の住宅街から少し離れた小高い丘に、古びた二階建ての洋館があった。かつては裕福な開業医が暮らしていた家を改装したもので、外壁はくすんだベージュ色に変色し、庭の草木は手入れもされず伸び放題になっている。夜になると窓から漏れる灯りは一つだけ。その光の主は六十五歳の男、精神医学と犯罪心理学を専門とする研究者・高宮征一であった。


 世間的には彼は名誉教授として知られ、過去に出版した数冊の専門書は大学の教材にも採用されている。講演会や学会に呼ばれることも多く、肩書だけを見れば成功者の部類に入るだろう。しかし、私生活は極端に孤独だった。結婚歴はなく、親族との縁も早くに切れた。近隣住民との交流もほとんどなく、宅配便の受け取りの際に「先生、相変わらずお忙しそうですね」と声を掛けられるのが、唯一の他者との会話であることさえあった。


 高宮の一日は規則正しかった。朝は六時に起き、簡素な食事を済ませた後、研究室へ籠る。机の上には論文の草稿や、心理学実験の記録、そして外部には決して見せられない「個人的研究ノート」が並んでいた。表向きには「犯罪者の心理構造分析」が彼の専門だが、実際に力を注いでいるのは、より深く、より危険な領域――「人間が他者に加える残虐性の起源」と「支配欲の実験的再現」だった。


 だが、彼がそのテーマに執着する理由を知る者はいない。高宮は外では冷静沈着に振る舞い、時にユーモアすら交えるが、内面には過去の影が常に居座っていた。


 夕方、研究を終えた彼は決まって書棚の奥に隠した古びたアルバムを取り出す。ページをめくるたびに、白黒写真の中から中学生時代の顔ぶれが現れる。制服姿のクラス集合写真、その片隅に映る自分の幼い顔。あの頃、教室の中で自分の存在は嘲笑と暴力の標的でしかなかった。机を蹴られ、教科書を破かれ、時には体育館裏で殴られる。教師も見て見ぬふりをし、家に帰っても訴えることはできなかった。両親は共働きで不在がちだったし、弱音を吐けば「男らしくない」と叱責されるのが分かっていたからだ。


 アルバムを閉じると、胃の奥からこみ上げるような苦味が胸を焦がした。あれから五十年以上経った今でも、彼は夢の中で当時の声を聞くことがある。「臆病者」「役立たず」「お前なんかいないほうがいい」。その声が頭の奥で木霊するたびに、彼の研究への執念は強まり続けた。


 「人間は変わらない。表面を取り繕っても、本質は残酷で醜いものだ」


 そう呟きながら、彼は机に散らばる資料を整理した。犯罪心理の論文、被虐体験を受けた少年の長期調査、暴力性を持つ子どもの成長記録。すべては彼自身の過去と奇妙に重なり合っていた。


 夜の十時を過ぎると、彼は研究室を出て屋敷の奥へと足を運ぶ。そこには厚い鉄扉があり、通常の生活空間とは隔絶されていた。外部の人間はもちろん、学会の同僚ですらこの存在を知らない。扉の内側には、最新の冷却装置と無数の医療機器が並んでいた。


 ――そこには、彼だけが知る秘密が眠っていた。


 高宮は扉の前に立ち、しばし耳を澄ませる。機械の低い駆動音とともに、わずかな呼吸のような響きが聞こえる気がする。だが、彼は中へ入ることなく、ただ扉に掌を置き、目を閉じた。


 「もうすぐだ……」


 その呟きは、まるで祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。


 研究者としての高宮征一は、世間からは敬意を集める存在だ。しかしこの屋敷の奥に潜むものを知れば、その評価は一瞬で崩れ去るだろう。彼の孤独な日常は、静かに、しかし確実に常軌を逸した方向へと進んでいた。


 窓の外では、遠くを走る電車の音がかすかに聞こえた。普通の人々が眠りにつき、翌日の生活に備えるその時間、彼だけは過去と向き合い、未来に向けて何かを準備していた。


 「人は、影から逃げられない」


 彼は独り言のように呟き、机に戻った。ノートの表紙には、震える筆跡でこう記されていた。


 ――《計画第一段階 終了》

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ