プロローグ
夜の帳が降りた研究室には、時計の秒針の音だけが響いていた。壁一面を覆う書棚には心理学や精神医学の専門書がびっしりと並び、その間にひっそりと紛れ込むように、年代物の古びたノートが数冊置かれている。ノートの表紙には、擦れて読めなくなった文字で「記録」とだけ記されていた。
机に腰掛ける男は、白髪を後ろへ撫でつけ、深い皺を刻んだ顔を苦々しげに歪めた。年齢は六十五歳。世間的には「第一線で活躍を続ける心理学研究者」として知られており、その論文は学会でも権威ある位置を占めている。しかし、この部屋にいるときだけは、彼の肩書も威厳も剥ぎ取られる。残るのは、過去の記憶に取り憑かれた、一人の老いた人間の姿だった。
机上のノートを一冊開く。ページには細かな文字で埋め尽くされた「観察記録」と「実験計画」の断片が並んでいた。筆跡は若い頃のものと今のものが混ざり合い、時に震えるように乱れている。そこに記されているのは学術的な知見ではなかった。むしろ、学会に発表すれば一瞬で職を失うような、社会の光が決して当たらない領域の研究だ。
彼の胸の奥で、何十年も消えることのなかった感覚が疼き始める。まるで古傷が季節の変わり目に疼くかのように、それは彼の心を締め付ける。忘れたくても忘れられない――いや、忘れることを自ら拒んできた記憶。中学生の頃、同じ教室にいた「ある少年たち」から浴びせられた仕打ち。殴打、罵声、嘲笑。机に彫られた落書き。逃げても追いかけてくる影。あの頃、世界は残酷そのものであり、自分という存在は無価値であるかのように踏みにじられた。
五十年以上が経った今でも、その情景は鮮明に蘇る。夢に見ることもある。目覚めた朝、心臓が早鐘を打ち、全身が汗に濡れていることもしばしばだった。栄光ある研究者の外見とは裏腹に、心の奥底には未だ中学生の頃の傷ついた少年が生き続けている。
男はノートに指を這わせ、ゆっくりと目を閉じる。頭の中には、一つの計画が何度も反復されていた。これは研究ではない。復讐でもない。彼自身にとっての「治療」なのだと自分に言い聞かせる。長年の孤独と研究生活の果てに辿り着いた、一つの究極的な試み。
部屋の片隅には、冷却装置の低い唸りが響いている。金属製の扉の向こうには、外界から隔絶された空間が存在した。そこは誰も知らない、彼だけの「実験室」であり、同時に「記憶の墓場」でもある。
カーテンの隙間から差し込む月光が、ノートの文字を青白く照らした。彼は再びペンを取り、震える手で書き込みを始める。
――観察対象は順調に成長している。
――外見の特徴は、あの頃の記憶と重なり始めている。
――実験は第二段階へ移行可能。
淡々と綴られる言葉の行間からは、焦燥と執念がにじみ出ていた。ペン先が紙を擦る音と、冷却装置の低音が部屋を満たす。世界には無数の研究者が存在するが、この計画を知るのは自分ただ一人。孤独な優越感と、背徳的な陶酔が、老いた研究者の心を確実に侵食していた。
窓の外、遠くで救急車のサイレンが鳴り響いた。だが、この部屋には関係のない出来事だ。ここでは別の「物語」が進行している。外界から切り離された時間の中で、彼はただひたすらに、長年抱えてきた影と向き合い続ける。
ペンを置き、ゆっくりと深呼吸をする。月光に浮かぶその横顔は、学者の理知的なものではなく、長い夢に取り憑かれた狂信者のそれに近かった。
「……もうすぐだ。」
声にならない囁きが部屋に溶けていった。




