第十三章 心理の罠
高宮は翌日の朝、研究棟のデスクに山のように積み上げられた資料を前にしていた。
数十年にわたって集めた精神病理学の論文、自らの手で書いた臨床データ、そして「人間の支配と服従」に関する記録。
――力では駄目だ。ならば、理論だ。
自分が積み上げてきた学問を武器にするしかない。
彼はコーヒーに震える手を伸ばしながら、一枚の紙に太い文字で書いた。
「被験者13号:条件反射実験」
少年の心を揺さぶるために、古典的な条件付けを応用しようと考えた。
快楽と恐怖を巧みに結びつけ、行動の自由を封じ込める――心理学的には王道の手法だ。
午後、実験室に入った高宮は、無機質な笑みを貼りつけて少年の前に立った。
「今日からは新しい訓練を始める。君の反抗心を、科学の力で矯正するのだ」
少年は椅子に座り、片足をぶらぶらと揺らしながら答えた。
「矯正、ねぇ……。僕のどこを直したいの?」
「従順さだ。被験者は研究者に絶対服従しなければならない」
高宮はモニターを起動し、映像を見せた。そこには少年自身が過去に笑顔を見せている映像が編集され、心拍数や脳波が快楽に寄ったときのデータと組み合わされていた。
「ほら、これは君が“正しく”振る舞ったときの状態だ。これを基準にすれば、心も身体も従順になれる」
少年は無言で映像を見つめ、やがて肩を震わせた。
次の瞬間、笑い声が実験室に響いた。
「……本気でそんな子どもだましが効くと思ってるの? 僕を作ったのは誰? その頭脳を知ってるのは誰?」
高宮の眉がひきつった。
「これは単なる映像ではない。データをもとに神経反応を操作する。拒否反応が出れば電気刺激を与える仕組みだ」
そう言うと、彼は机の上のスイッチに手を置いた。少年の足元の金属板がわずかに光を放つ。
「従わなければ、不快を与える。従えば、快楽を与える。それだけのことだ」
少年はしばらく沈黙した。だが次の瞬間、ゆっくりと立ち上がり、真っすぐに高宮の目を見た。
「じゃあ、やってみてよ」
挑発的なその言葉に、高宮は迷わずスイッチを押した。
短い電流が走り、少年の身体がわずかに跳ねた。
しかし――少年は苦痛の叫びを上げるどころか、口元に笑みを浮かべていた。
「……どう? パパ。僕、全然嫌じゃない」
高宮の胸に冷たいものが広がった。
「そんなはずはない……! 神経反応は確実に不快領域に……」
「ねえ、わからないの? 僕は“彼”の痛みを知ってる。あの頃のパパが、殴られたり蹴られたりしても耐えようとした気持ち。僕の身体のどこかに、それが刻まれてるんだよ」
高宮の指先が震え、再びスイッチを押す。電流が強まり、少年の筋肉が痙攣する。しかし彼は笑いを止めなかった。
「もっとやってよ。パパがあの頃できなかった“反撃”を、僕は楽しみにしてるんだから」
高宮の顔色が蒼白になった。
――効かない。制御が効かない。
机の上の記録紙には、乱れた波形が刻まれていた。だがそれは恐怖のサインではなく、むしろ興奮に近い値を示していた。
「……やめろ……」
思わず呟いた声に、自分の弱さが滲んでいた。
少年はゆっくりと近づき、高宮の耳元に囁いた。
「ねえ、パパ。科学でも力でも僕を縛れないなら……次は何を試すの?」
その言葉は、鋭い刃物のように心を切り裂いた。
高宮は少年を突き飛ばし、実験室を飛び出した。
廊下を走りながら、彼は頭を抱えた。
――どうすればいい。
知識も、力も、もはや役に立たない。
支配するために作ったはずの存在が、いつの間にか自分を試す“実験者”になっている。
研究棟の窓から見える曇り空が、彼の心をさらに重くした。
もはや彼には、自分自身が檻に閉じ込められているように思えた。




