第十二章 制御の試み
翌朝、高宮は研究棟の白い廊下を、重い足取りで歩いていた。
徹夜での監視システム点検は結局徒労に終わった。異常を示すログは一切なく、夜中に見た映像や音声の痕跡も残っていない。記録上は、すべて「存在しなかったこと」になっていた。
――だが、確かに私は聞いた。見た。
幻覚にしてはあまりに具体的だ。
彼は思考を振り払い、医療器具を手に実験室へ向かった。
「ここで決着をつける。奴の反抗心は、徹底的に叩き潰すしかない」
ドアを開けると、少年はいつものようにベッドに腰かけていた。両手は固定具に繋がれていない。前夜の出来事のせいで高宮が拘束を外したままにしたのだ。
少年は微笑んだ。
「おはよう、パパ」
その声音には恐怖も動揺もない。むしろ、試すような軽さがあった。
高宮は鋭く命じた。
「横になれ」
少年は首を傾げただけで従わない。
「今日は何をするの? もっと痛いこと? それとも、新しい実験?」
高宮は無言で鎮静剤の入った注射器を取り出した。透明な液体が針の先で震える。
「抵抗は許さない。お前の芽生えかけた錯覚を、ここで終わらせる」
だが少年は注射器を見つめながら、ふっと笑った。
「それで安心できるの? パパが僕を眠らせている間に、自分の中の恐怖も眠らせようとしてるんでしょ」
「黙れ!」
怒鳴り声が室内に響いた。高宮は注射器を握りしめ、少年の腕をつかもうとした。だがその手は途中で止まった。
少年の眼差しが、鋭く彼を貫いていたからだ。
「僕、知ってるんだ。パパが本当に恐れているのは、僕じゃない。……昔の“彼”だよね」
高宮の呼吸が乱れた。
「なにを……」
「昨日、ノートを見せてあげたでしょ。支配は逆流する、って。あれを書いたとき、パパは自分でも気づいてたんだよ。本当はずっと怖かったんだ。――また同じことをされるんじゃないかって」
高宮の頭に、過去の記憶が押し寄せた。
中学の教室。笑い声。無力だった自分。
拳を握りしめると、爪が手のひらに食い込んだ。
「……違う。私は支配する側だ。私は研究者だ!」
高宮は叫び、再び注射を突き出した。
だが少年は怯まず、さらに言葉を重ねた。
「パパが僕を叩きつけても、縛り付けても、結局“あのときの自分”に仕返ししてるだけだよ。僕はその鏡にすぎないんだ」
その瞬間、高宮の手が震え、注射器が床に落ちた。ガラスが割れる乾いた音が響き、透明な液体が床に広がる。
高宮は膝をつき、肩で息をした。
少年はゆっくりと立ち上がり、近づいてきた。拘束具が外れていることに、いまさらながらに高宮は気づいた。
至近距離で、少年は小声で囁いた。
「ねえパパ。そろそろ順番を変えてみようよ。ずっと“支配する側”ばかりじゃ、退屈でしょ」
高宮の背筋に冷たい汗が伝った。
だが、彼は必死に言葉を絞り出した。
「……お前は……私の創造物だ。私の意思から逃れることはできない」
少年は小さく首を振った。
「逃げないよ。だって、僕の中にはパパがいる。パパの憎しみと恐怖が混ざって、僕は生まれたんだから」
その声は穏やかでありながら、残酷な真実を突きつけるものだった。
高宮は理解した。
――力での制御は、もはや通用しない。
少年はただの被験者ではなく、己の心の最も暗い部分を映し返す鏡になってしまったのだ。
研究棟の外で、風が鉄扉を叩いた。鈍い音が、彼の心臓の鼓動と重なった。
高宮はうつむきながら、歯を食いしばった。
「……ならば、別の方法を考えねばならん」
その呟きを聞き、少年はにやりと笑った。
「楽しみにしてるよ、パパ」




