9.なすべきこと
――ユタンの脳裏に事あるごとに浮かぶのは、記憶の中、昔日の母の姿だった。
乱暴者で思慮浅く、とても伯爵家の当主とは思えない粗野で醜い父とは不釣り合いな、見目麗しく、礼儀正しく、聡明で、いついかなるときも穏やかで優しい母。神の教えという免罪符のもと、貴族など誰もが腐り、よどむ、穢れた国にあって、清廉で、気高くあり続ける母。
そんな母に愛されることが、幼い頃からの彼の望みだった。母が喜ぶことが、彼の喜びだった。母の誇り高き姿が、彼の誇りだった。
だから、母が彼だけにと、夜ごと寝物語に囁き明かす、母の怒りと憎悪は、彼の怒りと憎悪でもあった。その無念は彼の無念となり、その宿願は、彼の宿願となった。自らが母の子として生まれてきた理由をそこに見出すのに、さして時間はかからなかった。
それから少しずつ少しずつ、長い年月をかけて、母は彼に、どうすれば同じ血を分けた血族と力を合わせ、その宿願――崇高なる使命を果たせるかを説き続けた。
そしてその計画の一環として、彼を当主にすべく父に毒を盛り、また証拠を消すために自らも毒を飲んだ母は、いまわの際に彼を呼び寄せ、告げた。
――『後は己に従いなさい』と。
だからこそ、彼は己に流れる血に従い、己の望みに従い、前へと進んだ。
計画を妨げる者たち、計画に殉ずることを約した者たち、数多の屍を踏み越えて。
そしてようやく――その宿願は、果たされようとしていた。
「……まったく、手間をかけさせてくれたな」
部下の兵士に連れて来られた少女を前に、ユタンは口もとだけで笑う。
――部下による、発見の報告があってすぐのこと。
アルファートの助けもなく、また、追っ手を邪魔するような魔物も棲息しないとあれば、少女の足ではそうどこまでも逃げられるものではなく――結果、これまでの長い逃亡劇が嘘のようにあっさりと捕らえられたピュティアは、ユタンのもとへと引き戻されたのだった。
「この子が……その『鍵』ですか?」
相変わらず、何を考えているかつかめない表情で、飄々と尋ねるカロンに、ユタンはいくらか機嫌良くうなずいてみせる。
「では、あとは地上へ引き返すだけ、というわけですね。無事に保護できて何より――」
「いや。このままさらに先へ進む」
ユタンの断言に、カロンは首をかしげた。
「どういうことです? これ以上厄災とやらに近付くのは危険なんじゃないですか?」
「それももっともだが、『鍵』をここまで近付けてしまった以上、むしろ何らかの影響が出ていないか、確かめる必要がある。何かが起こってしまってからでは遅いからな。
もちろん、最悪の場合、我々自身の手で厄災を止める羽目になるかも知れないが――力を貸してくれるのだろう? 剣聖殿」
挑発するかのようなユタンの視線を受け、カロンはため息混じりに、芝居がかった仕草で大げさに肩をすくめて見せた。
「……やれやれ、オジサンはもう疲れて眠いんですけどねえ。
まあ、乗りかかった舟というやつですかね。おとぎ話の『九柱の悪魔』よりマシな……せめて刃物でちょん斬れる相手であることを、そりゃもう切実に願いますよ」
「それは同感だな」
答えて、ユタンはピュティアの背を押す。
ふらりと歩き出したピュティアは、ただ、静かにうつむいていた――哀しみとも諦めともつかない、色を失った表情で。
「――行くぞ。私も、己に従い――なすべきことをなさなければ……な」
*
――思わぬ対面となった、アザンティ王国のオルフェと別れたアルファートは、オルフェの部下に引き立てられて、霊園の木立の中を逆方向へと歩き続けていた。
やがて二人は、さざ波一つない澄んだ水をたたえた、小さな池のほとりにたどり着く。
「……よし、この辺りでいいだろう」
道中、オルフェから聞いた話を頭の中であらためて噛み砕いていたアルファートは、兵士のその一言に少しもたつきながら立ち止まる。
そんな彼を突き飛ばすように池のみぎわへ追いやると、兵士は小脇に抱えていたアルファートの双剣を、乱雑にそばの木の根本へ放り出した。
「向こうを向け」
兵士の高圧的な態度に不満を言うでもなくアルファートは、素直に従って池の方へと向き直る。そうして、後ろ手に拘束する枷の外されるときを待ちながら、この後どうするかを考えていた。
――こちらが道を戻されている間、相手はさらに先へ行ったとなれば、その距離の開きは大きい。この兵士のあとを付ければオルフェのもとへは戻れるだろうが、それでは明らかに遅くなる……。
それにそもそも、兵士は約束通りに道を引き返していくか確認するまで、動き出しはしないだろう。
(……となると、申し訳ないけど、この人には少し眠ってもらうしかないかな……)
「フン。この双剣、『陽聖』と『夜縁』――だな。カロンめ、昔自分が使っていたものを譲るとは、よほど弟子が可愛いらしい」
「……え?」
手枷を外された瞬間、そのスキを突いて一気に気絶させよう――。
そんな風に考えて密かに身構えていたアルファートは、背後から投げかけられた予想外の台詞に虚を突かれた。
その刹那――完全に無防備な彼の首に、いきなり太い腕が巻き付けられた。反射的に逃れようとするも、相手は慣れた動きでそれを封じ、ゆっくりと絞め上げてくる。
「ぐ……う……っ!」
「オルフェとの会話は聞かせてもらったよ。奴はどこか計画に乗り気でない気配があったが、まさかこんな手段に出るとはなぁ」
その気になれば一瞬で締め落とせるのだろうが、兵士はそうしなかった。
腕を封じられ、さらに枷の力で貌霊を顕現することもできないアルファートに対抗手段がないと理解しているからこそだろう、文字通り真綿で首を絞めるようにじわじわと圧力を上げていく。
「帝国が内偵に雇ったのは、お前の師匠だけじゃないんだよ。当然、アザンティ(こちら)側にも潜り込んでいるわけさ。それが俺だ。
――ホズマという名、カロンから聞いたことがないか?」
息が詰まる中アルファートは、冒険者としての腕は良く、表立っては善人風だが、裏でさまざまな悪事に手を染める人間がいる、というカロンの話を思い出していた。
「お前個人には恨みはないんだが、カロンの奴にはさんざん煮え湯を飲まされた経緯があるんでな。しかも俺の依頼主は、仕事を達成した上でカロンを始末すれば、報酬を三倍に上乗せするって言ってるんだよ。それに、だ――」
ゆっくりと身体ごと引き上げられ、アルファートの足が地面から離れる。
途端に、首にかかる圧力が増した。
「……ぅ……!」
「『悪行』ってのがどれだけヤバイものか知らんが、持ち帰るにしろそうでないにしろ、ギリギリまで奴らの計画を見守る必要があるだろう?
つまりだな、あの鬱陶しいカロンの弟子で、しかも俺の目的にとって邪魔になりそうなお前は、生かしておくわけにはいかないんだよ。……すまんなぁ?」
すぐ近くから発せられているはずのホズマの声も、今のアルファートにはひどく遠くからのものに感じられた。
幻覚か現実か、すべての血液が眼球に集まったかのように、視界が真っ赤に染まり出す。
このまま意識が落ちれば、二度と目を覚ますことはない――今さらながらにあらためてそう悟った瞬間、アルファートの中で何かが切れた。
「……ぁ……ぁっ!」
彼は最後のあがきとばかりにホズマの腕の中で暴れながら、ぶらりと垂れ下がった足を振るい、踵でホズマのすねを蹴りつける。脚甲で覆われているそこは、そんな苦し紛れの一撃にはびくともしなかったが、そもそも彼が狙ったのはダメージではない。
「――――ッ!」
アルファートは自らの首を絞める腕に、あえて自ら体重をかけて力点にすると、すねを蹴った反動を利用し、身体をくの字に曲げながら、自分の頭部のさらに上を目がけて膝を跳ね上げる。
――膝頭からは、すね当ての裏に仕込まれていた、暗器の鋭い刃が顔を覗かせていた。
刃は、狙い通り頭頂を越え、そして直後――鈍くて重い、肉を貫く確かな感触が膝から全身へと伝わった。
「け――ぇっ……っ!」
奇怪な動物の鳴き声のような呼吸音がしたかと思うと、途端に束縛がゆるみ、アルファートの身体は地面に投げ出された。
ようやく解放された気道に、全身が待ちに待った酸素を望み、アルファートは激しく咳き込みながら膝を突いて身体を起こす。
反対に、がっくりと両膝を突いたホズマの顔面からは、鮮血が勢い良く吹き出し、地面を赤く染め上げていた。
「キ……サぁ……マ……!」
そんな状態にあってなおも――いや、だからこそなのか、ホズマは殺意に目をぎらつかせながら腰の剣に震える手を伸ばす。
しかし、それが抜き放たれることはなく……柄に手をかけた格好のまま、その身体は力なく横倒しに地面に転がった。
「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……!」
ホズマの絶命を見て取ると、アルファートは大口を開けて必死に酸素を取り込む。
しかしそうして息を整えるのもそこそこに、死体に近寄ると、拘束された後ろ手で、ホズマの腰に巻かれた革袋を探って枷の鍵を引っ張り出す。小さなプレートの形をしたそれを、つまんだ指を色々と角度を変えながら動かし、苦心の果て、ようやく鍵穴に挿して手枷を外した。
その後、ホズマが放り出していた双剣を手早く腰に巻き直すと、いまだふらつく足に必死に力を込め、もと来た道へと駆け出していく。
脳裏には、ホズマが口にした不穏な単語がちらついていた。
(とにかく――急がないと……!)




