1.賢人たち
「あらあら。そろそろ夜も終わりねえ」
――ロシュリム帝国、皇宮奥に広がる花園。
その中に孤島のようにたたずむ東屋で、変わらず少年と茶会に興じていた帝母は、首を傾けて穏やかにつぶやく。
いまだ日が昇るには至らないが、夜空に冷たく君臨していた銀色の月も、すでに地表近くに身を横たえ、あとは眠りに就くのを待つばかりだった。
「お婆様の読み通り、結構もつれたみたいだね。ボクはもう少し早く終わるものだと思っていたんだけどなあ」
少年は無邪気に小首を傾げながら、静かにカップを口に運ぶ。
誰かが定期的に供給に来ているのだろう、ティーポットから注がれたばかりの紅茶は、いれたてそのものの湯気をほんのりと立ち上らせていた。
「あらあら。私も、ここまでとは思っていなかったのよ?」
少年の仕草にひとしきり微笑んでいた帝母は、何かを感じたのだろう、視線をついと脇に逸らす。
するとちょうどその先では、ふわりと浮かんだ翠色の光が、群れ集い、ひざまずく踊り子の姿を形作るところだった。
『失礼致します。報告に上がりました』
「あらあら、ご苦労様。そろそろだと思っていましたよ」
帝母は、少年と変わらぬほど無邪気な笑顔で、好奇心を隠すことなく尋ねる。
「何か面白い動きでもあったかしら?」
『申し訳ありません、地上では特に何事も』
「あらあら、残念ねえ。……それじゃあ、議会の方はどうかしら? 鎖を引きちぎるような豪気な犬はいないと思うけれど、ちゃんと言いつけ通りに大人しくしていて?」
『それは問題ありません。商人たちに不満がないわけではありませんが、議長がうまく抑え込んでいます。――当面、余計な動きにわずらわされることはないかと』
「それは何よりね。せっかくの舞台、無粋な観客は邪魔なだけだもの」
帝母はさも愉快そうに笑みをこぼした。
『では帝母様、私は任務に戻――ッ!』
いつものように退去の挨拶に一礼したかと思うと、踊り子は突然苦悶の声を上げた。同時に、姿を形作っていた翠の光がほどけ、その像が途端に掻き乱される。
それは帝母と少年、双方にとって予想外の出来事だったのだろう。声を上げたり、あわてたりするようなことはないものの、普段の無邪気だったり、穏和だったりといった雰囲気は一瞬で鳴りを潜め、緊迫した目をすうっと細める。
そうして何事が起こるのかと様子を見るのもわずか、不鮮明になった踊り子の姿を経由して、明らかに彼女とは違う男の声が、やや雑音混じりに響き渡った。
『栄えある帝国の帝母様にはご機嫌麗しく。約束もなしの不躾な挨拶、どうかご容赦いただきたい。……実は少々用がありましてね、この女性の貌霊に割り込みをかけさせていただいた』
帝母は静かに微笑む――が、その笑顔の本質が、普段のそれとはまるで別物であることは、彼女を知る者なら誰もが気付くだろう。
これが、決して目にしてはならない類のものであることを。
「……いいでしょう。不躾なのは確かながら、その紳士的な挨拶に免じ、許しましょう。用向きとは何です?」
『光栄です。……しかし実は、帝母様ご本人ではなく、貴女のそばにいるであろう者に話があるのです。
――お互い姿を見ることは叶わないが……聞こえているだろう?』
男の呼びかけに応えたのは少年だった。
ティーカップを静かに置き、ゆらりと、乱れる翠の光に向き直る。
「なるほど。先程から彼女の通信を覗き見ていたのは君だったんだね。――ワイズ」
『……そうか、お前だったか。久しぶりだ』
名を呼ばれ、ワイズの声は挨拶を返す。
そこに他意はないのか、めずらしく感慨めいたものが響きの中に混じっていた。
「そうだね、本当に。――で、ボクに話っていうのは? できれば手短にお願いするよ、あまり長い間長距離通信に割り込みなんてかけられてたら、アイオンが気付いて余計な横槍入れてくるかも知れないし、そもそも彼女の貌霊の負担が大きくなり過ぎるからね。
彼女は貴重な逸材なんだ、壊されたりしちゃたまったものじゃない」
『――もっともだ。では、手短にいこう。
お前のことだ、わざと傍観していたのだろうが、このサイメルにマクロファージのXナンバーが眠っているのは知っているな?』
「君ほど正確な位置情報をもっていたわけじゃないから、もしかすると、という推測の域でしかなかったけどね。
――そっか、やっぱりXナンバーだったか。……それで?」
『――破壊する。一言、断っておくべきかと思ってな』
「ふうん? めずらしいね、君のことだから、どうなろうと決して直接手を下すことはしないと思ったけど」
『支援はするが、私が直接破壊するわけではない。……ある意味、私よりも適任と思われる人材が見つかったのでな』
「へえ? ボクらでさえ危険だっていうのに、この真世紀をアイオンに縛られて生きる、劣化した新しい人間たちに、あのXナンバーの相手なんてできるとは思えないけど……いったいそれは何者?」
興味津々といった様子で少年は身を乗り出すも、ワイズの声は素っ気ない。
『さて、な。それは今後の楽しみとしておこう』
「ちぇっ、意地悪だなあ。まァいいや。……で? どうしてわざわざボクに断りを入れようと思ったの? 好きにすればいいのに」
『初めからお前と分かっていればこんなことはしなかったさ。
だが、他の者だった場合、何らかの意図をもってXナンバーの解放を目論んだ可能性があるだろう? ならば、その計画を邪魔することになる以上、同じ賢人として断りを入れるのが筋だと思ってな』
「律儀だねぇ、相変わらず。……まァ、とりあえず了解したよ。ボクは特に手助けしないけど、邪魔もしないから。好きにするといい」
『感謝する。では、またな。
――帝母様におきましても、お忙しいところ大変失礼致しました。これで用は済みましたので、貌霊の支配は彼女にお返しします』
ワイズの声がそう告げるが早いか、乱れていた翠の光が、再び集って確かな踊り子の姿を結ぶ。彼女は、両手を地について激しく息をついていた。
『て、帝母様、申し訳、ありません……! い、今のは……?』
「何があったか覚えているの?」
少年の問いに、踊り子は大きく首を振る。
『い、いえ、突然目の前が真っ白になったと思ったら……何かに圧迫され、押さえつけられるような感覚に襲われて……。い、一体、何があったのですか……っ?』
「君の貌霊は特殊だからね、そういった乱れが出ることもあるってだけさ。大丈夫だよ、問題はない。――ねえ、お婆様?」
少年は穏やかに言って、帝母を振り返る。
老婆は、いたわるような表情でうなずいた。
「一日中働いているのだから、疲れも出たのでしょう。次の報告までの間、少しだけでもお休みなさいな」
帝母の言葉に、しかし、と反論しかけるが、踊り子も自身の消耗具合に関しては誰よりよく分かっているのだろう。大人しく納得して引き下がった。
「それにしても……」
踊り子が消えた後、翠色の光が夜空に溶けるのを見届けると、帝母は椅子に戻った少年に視線を移す。
「意地悪ね、あなたは。まだまだ色々なことを知っていたのに、黙っているのだもの」
「――お婆様こそ。本当はあそこに何があるか、とか、知っていたんじゃない?」
二人は顔を見合わせると、本当に可笑しそうに静かに笑い合った。
「……やっぱり、あなたとこうして『お喋り』するのは楽しいわねえ」
「まったく同感だね――お婆様」




