9.『賢人』なる存在
――薄明かりの中、ピュティアは必死に、来た道を駆け戻っていた。
崩れかけた建造物に堆積した土砂など、はっきり目印となるものはあまりなく、見通しも決して良いとはいえない環境だが、それでも少女は道を間違えたりすることなく、待っている人のもとへと真っ直ぐに向かう。
毒で動けないアルファートを全力で運び、さらに、片道だけで数分間は走った、その帰り道……さすがに体への負担は大きく、疲労の色は濃いが、しかし彼女の表情はどことなく明るい。
その原因はひとえに、彼女の小さな手がしっかと握る、白っぽい色にぎざぎざの葉をした草の束にあった。
――瓦礫と土砂に道を塞がれ、聞こえていながらもなかなかたどり着くことができなかった水音の源は、高く積もった土砂の隙間から小さな滝となって流れ落ち、地面の傾斜と建物の残骸がうまく器になってできあがった泉だった。そしてその周囲には、ひっそりと寄り添うようにして、いくらかの植物が茂っていたのだ。
それらは、陽の光が射さないためだろう、地上の植物とは一線を画した奇妙な外見のものがほとんどだったが、ピュティアは幸運にも、その中に見覚えのある薬草を見出す。
それこそまさしく、毒によく効くと教えられた、願って止まなかった薬草だった。
――これがあれば、アルファートを助けることができる。
摘み取った薬草を手に、ただその一心でアルファートのもとへと走るピュティア。
しかし――。
「…………アル……?」
そこに、その場所に――アルファートはいなかった。
呆然とするピュティア。わななくその手から、薬草と水筒が滑り落ちる。
「そんな、どこ……? アル――!」
声を上げて名を呼び、見回しても、周囲に求める姿は見つけられない。
自分の後を追おうとして行き違いになったのか、何かあって自ら場所を移動したのか、それとも誰かに連れ去られたのか……可能性はいくつも考えられたが、今の彼女にとってはただ、アルファートがいないという、その一点だけが重大だった。
「アル……アル……っ!」
捜さないと、という思いに突き動かされ、ピュティアは落とした物を拾うことも忘れて疲れ切った体に鞭打ち、小走りに東へと駆け出す。
理由など無かった。だがなぜか彼女は、そちらへ行けば求めるものに会えるような――そんな気がしていた。
*
この地下都市にあって、いまだに原型を留める、とある建造物の中の一室――。
その中央、他よりも少し高く、平らにならされた石床の上に、アルファートは横たわっていた。苦しむ様子はなく、むしろその落ち着いた表情は安眠のそれに近い。
「しかし――これは相当の無茶をしたな。身体の損傷や毒素ではなく、精神の過負荷によって意識が保てなくなったようだ。
どうやら、貌霊の自衛本能による強制遮断寸前まで断罪騎を酷使したらしい」
アルファートのかたわらに膝を突いたワイズが、呆れたように言いながら、アルファートの体、その様々な部位に手をかざしていく。
ワイズの手が動くたび、まるで水面にそっと触れたかのように、翠色の光る輪が宙に小さく波紋を描いた。
「……ふむ……こんなところか」
「いかがですか? マスター」
そばで様子を見守っていたケイナの問いに、ワイズは一つうなずいて答える。
「身体の損傷箇所は構成真理を書き換え、痛みは残るが行動に支障が出ない程度にだけ修復し、毒素は削除した。
精神については――私でも安易に干渉できるものではないからな、自然再生を待つしかないが……霊子界に代替エナジーを集めて固着させ、そこに線を繋げておいた。太古の魔術師然とした言い方をするなら、さしずめ予備魔力を付与した――といったところか」
「それで……このまま、この少年が目覚めるのを待ちますか?」
今度は、ワイズは首を横に振った。
「後々、接触する必要があるかも知れないが……今のところはやめておくとしよう。この先、動きづらくなりそうだ」
「分かりました。……ですが、さすがに目覚めたとき、不審に思うのでは?」
「そうだな。精神は――調子がいい、ぐらいには感じるだろうが、付与しておいた力は使えばそのまま消えて痕跡は残らんし、そうしているうちに精神も本来の活力を取り戻すのだ、さして問題はないだろうが……身体の方は、何かあったと感づかれるのは当然か。
では、後で一筆残しておくとしよう――そうだな、『偶然迷い込んだ学者だが、倒れている君を見つけ、できる限りの治療をした。所用で少しこの場を離れるが、くれぐれも無理をしないように』――と、そんな感じでどうだ?」
得意げなワイズの言葉に、ケイナは困ったように顔をしかめた。
「……思いきり、あやしまれると思います」
その一言に、ワイズは声に出してひとしきり笑う。
「昔から色々なモノを作ってきたが、シナリオだけはいまだに苦手だな。
――仕方ない、止めておくか。別に不思議に思われたところで大した問題にはならんし、いざとなれば、我々が再接触するきっかけにも使えるだろうしな」
「マスターがそうおっしゃるなら良いのですが……それにしても、どうしてここまでこの少年にこだわるのですか?」
「なんだ、妬いているのか?」
「残念ながら……わたしにはまだそれが理解できません。純粋に疑問に思うだけです」
ケイナが淡々と答えると、だろうな、とワイズもため息混じりに同意した。
「……この少年が、カロンの弟子らしいというのがまず第一。面識はなかったが、この双剣で分かる。ずいぶんと昔、奴が使っていたものだからな。譲ったのだろう。
――いや、奴の場合、押し付けた、という方が正しいかも知れんが」
「……カロン・マティウスですか? あのミルドアークの一団の中にいましたが……マスター、知り合いだったのですか?」
「旧友、といったところだ」
意味ありげに、口もとで笑うワイズ。
「――さて、第二の理由だが……このあとXナンバーが動き出すことになった場合、断罪騎があれば便利だと思ってな。いかにあれでも、絶対不可侵に近い存在強権を与えてある断罪騎には、そうやすやすとは干渉できん」
ワイズの答えを受けたケイナは、静かにアルファートに歩み寄ると、しゃがみ込んでその顔を覗き込んだ。
「それにしても……断罪騎は、マスターたち『賢人』以外誰一人――あのアイオンですら触れられない、霊子界中の『領域』に隔離されていたはずです。
やはり、誰か他の賢人の方が、何らかの目的をもってこの少年の魂に刻んだのでしょうか……?」
「その可能性もないとは言わんが……恐らくはこの少年の魂が自ら引き寄せたのだろう。――見ろ」
ワイズはそう言うと、右手をアルファートの額の上にかざす。
そうしてややもすると、アルファートの枕元に、彼自身が眠っているにもかかわらず断罪騎が顕現した。
断罪騎は、どこかぎこちない動きで、その場をゆっくり行きつ戻りつする。
「割り込みをかけて操ってらっしゃるんですか、マスター」
「そうだ。だが――っ!」
唐突に、ワイズは何かから逃げるように頭を仰け反らせる。ほんのわずかながら、彼の眉間の辺りに、火花のようなものが閃いたのをケイナは見た。
――それとともに、断罪騎はその姿を消していた。
「見ての通りだ。私ですら拒否される。優先度において私の上にあるのさ、この少年が。断罪騎が、一般の貌霊と同じように――いや、それよりも強く結びついている証拠だ」
目もとを覆う帯越しに、眉間に手をやるワイズ。
「では、本当に……? でもそんな、人の身の上で……」
「言っただろう、人間というものを甘く見るなと。――いかに我らが隔離したと言っても、それを超える何かがあるなら……こういった事態も起こるだろうさ」
ワイズはケイナの頭をぽんぽんと軽く叩いて立ち上がる。
「――ところでケイナ。お前の同素体の方はどうなっている?」
「あ、はい、それが……」
ワイズに続いて立ち上がったケイナは、彼女にしてはめずらしく表情を曇らせる。
「一方の個体については問題ないのですが、その、もう一方が……」
「消えたのか? 反応が」
「はい。少し前から、徐々に感じ取りづらくなっていたのですが……今はもう、完全に」
「……ふむ。停止したのか? だがそれが分かっていたなら、距離も近いことだし、保護しておいてもよかったかも知れないな」
「も、もうしわけありません、わたしが報告を怠ったばかりに……」
あわててケイナが頭を下げるも、ワイズはさして気にしていない様子だった。
「かまわん。私は私で、断罪騎のことに夢中だったのだからな。
いや、だが……待てよ。
――ケイナ、感じ取りづらくなった、と言ったな? 弱くなった、ではなく」
「あ、は、はい。そもそも初めからそちらの方は、もう一方に比べて反応を捉えづらいところがあったのですが……それがこの数時間の内に特に顕著になったような雰囲気です。まさか、何者かが感応妨害を施したわけではないでしょうが、それに近い感じでした」
ケイナの説明を受けたワイズは、少しの間何かを考えた後、さも愉快そうに笑った。
「なるほど、そういうことか。――ケイナ、土くれが土くれでなくなるときというのは、何も崩れて大地に還るときばかりではないぞ?」
ワイズがそう言っても、ケイナは要領を得ないとばかり、首を傾げていた。
しかしそれもしばらくのこと、やがてハッと何かに気付いたらしく、目を丸くする。
「ま、まさか――。そんな! そんなことが……!」
「前例がないわけではないしな。それに、その同素体のルーツが私の想像通りなら、充分ありえることだ。
しかし、お前を差し置いて――それも新たな人間の手によるものが、先にそこへ至るとはな」
絶句するケイナを尻目に、ワイズはもう一度口もとで笑う。
「……まったく。Xナンバーの様子を確かめに来ただけのはずが、断罪騎といい、お前の同素体といい……予想外に興味深い出来事の連続じゃないか。
――やはり形はどうあれ、人の生きる世とは面白いものだ」
「マスター……」
「こうなっては我らとて糸の一つか。どのような結末が紡がれるか、見届けなければな。
――ケイナ、少年をもといた場所へ運んでやれ。そろそろ気がつく頃だろう」
「……分かりました」
ケイナが答え、すぐさま行動に移るのを感じながら、ワイズは部屋の窓に近寄る。
そして目もとの帯越しの瞳で、窓から下方――広がる闇の中、淡い光だけが形を紡ぐ、遥か下方の地下都市遺跡を、静かに見下ろした。




