6.窮地
――常人ではそもそも上ることすら容易ではないだろう、居並ぶ建造物の最も高所から高所へと、物音一つ立てず、さらには菌類の淡い光に像すら残すことなく、飛び移りながら地下都市を移動する二つの影があった。
それらは、はるか下方に、隊列を組んで東へと進むユタンを中心としたミルドアーク教国の一団を発見すると、傾いた尖塔の屋根という、比較的平らな場所で足を止める。
「……ようやく追い付いたな。あれがそうか」
ワイズは、まるでその目が見えているかのように、下方を見下ろしつつ腕を組む。
「まさか、殲滅するおつもりなのですか?」
かたわらに控えたケイナが問うと、ワイズは「それこそまさかだ」と笑って否定した。
「私自身がそういう立場にいることを望んでいるのだ。よほどのことがない限り、私は直接手は出さん。
ただ、先程、いくつか面白い情報を掴んだのでな――彼らにあまり先んじられても困ると思い、急いだだけだ」
「情報……ですか?」
「少し前に、ここサイメルからの霊子界経由の遠距離通信を傍受した。送信座標は北のロシュリム帝国内だ。遠距離通信は、奴――アイオンが強固に規制をかけているため、いかなる貌霊も使うことはできないはずだが……まあ、突然変異的な例外はいつの時代も存在する、ということだな。
もっとも、それだけに暗号化されているわけもなく、私には筒抜けだったが」
「それで、内容はどのような……?」
「そうだな……とりあえず彼らミルドアークが、Xナンバーを目指しているのはほぼ間違いないことは分かった、とだけ言っておく」
「では……確かに、あまり先を行かれるのも良いことではありませんね」
「ああ。……しかし、これはあくまで想定していたことの裏付けに過ぎない。
それよりも今私の興味を惹くのは――地下に入ってから霊子界内に顕現の反応を感じた、ある貌霊のことだ。
昼頃、街中で同じ反応を感じたときは、何かの間違いかとも思ったのだが」
ケイナは小首をかしげる。
貌霊は人であれば誰もが持っているものであり、召操型や絡鎧型といった系統の分岐や能力の個体差はあるものの、生まれつき霊子界の認識力が欠落した『欠素者』以外は、おおむね扱えて当たり前の能力でしかない。
そしてその能力に、先にワイズが口にした突然変異的な力があったとしても、ワイズにこれだけのこだわりを感じさせるほどだとは思えなかった。
「……そうだな。特別な力があれど、それが魂のもつ刻印ごと、法則に則って刻まれる通常の貌霊であるならば私も気にはしない。
だがあれは、そういったただの霊子界への接界扉素ではないのだ。あれは――あの反応は、私だからこそ分かる。間違いない――」
ワイズは塞がっているはずの視線をすっと、眼下の一団の進行方向……東へと移した。
「『断罪騎』だ」
*
――土砂に埋もれた建物を抜け、なおも東を目指し廃都の街道を進むアルファートたちは、つづら折りになった坂を上り、小高い丘のような場所へやって来た。
見たところ、そこは、もとは大きな人工の池を擁した庭園だったらしい。
だが、今や池いっぱいに張られているのは水ではなく、恐らくは上層の排砂路を経由して流れ落ちてきたものであろう砂粒だった。
淡い菌類の光の中、いくつもの砂の糸が、控えめに輝きながら音もなく静かに天から落ちるさまは、周囲の荒涼とした風景と不思議に噛み合い、独特の美しさをたたえていた。
今はゆるやかに低所へと流れる砂が満たす池を、その上に架けられた、いまだ頑健な造りの幅の広い石橋を渡って横切るアルファートたち二人。
周囲を警戒し、また時折思索にふけるアルファートと違い、ピュティアは当初塔からこの地下都市を見下ろしたときの反応が嘘のように――そして初めて会ったときよりもはるかに年相応の子供らしく、興味深げに辺りを見渡していた。
赤いリボンが左右に踊るのを後ろから見守りながら、アルファートはその変化が、自分に心を開き、信頼してくれていることの現れだとすれば嬉しい、と感じていた。
自然と笑みもこぼれるが、まだ気をゆるめるには早いと、あわてて緊張感を持ち直す。
(……そもそも、東岸地区にたどり着けば安全、っていう考えにも保証があるわけじゃないんだ。教国の影響力が大きい西岸に戻るよりはマシだろうけど、でも、敵対国だからってアザンティが何もしてこないとは限らない。
むしろ敵対国だからこそ、教国が追っていることを知れば、何らかの交渉に使おうと、躍起になってこの子を捕まえようとするかも知れないんだ……)
この緊張状態から解き放たれるのはまだずっと先だな、と小さく息を吐いたアルファートは、同時に、自分の腹の虫が鳴いていることに気が付いた。
懐中時計を取り出して時間を確かめてみると、すでに夕食時を過ぎている。
昼過ぎからずっと地下にいるせいで時間の感覚は薄れ、気を張りつめ通しだったことで食欲もあまりあるとは言えない状態だったが、むしろこんなときだからこそ、食べる物があるなら食べて体力をつけておかなければならないことを、カロンとともに旅をしてきた彼はよく心得ていた。
幸いにも、バックパックには携行食の干し肉がまだ残っている。彼はピュティアを呼び止めると、多少なりと柔らかめでまだ食べやすそうな干し肉を一枚選んで手渡した。
「……ごはん?」
「味は保証しないけどね。食べられそう?」
「うん、ピュティアも、おなかすいてた」
丁寧にいただきますを口にしてから、ピュティアは子供には大きめな干し肉を、両手でしっかりと掴んでかぶりつく。そしてなかなか切れない肉を、顔をしかめて思い切り引っ張って噛みちぎり、牛のように長々と咀嚼して、ようやくごくんと飲み込んだ。
その間、すでに三口目を噛みしめながらのアルファートの「どう?」という問いに、ピュティアはこくんとうなずいて、「おいしい」と答える。
「……つくったの、アル?」
「うん。まあ、そう言っても干し肉の作り方なんて決まってるし、味付けだって、塩と少し香辛料を使ったぐらいだから、料理ってほどのものでもないけどね」
アルファートが謙遜しているうちにも、ピュティアは肉を噛み切るコツを掴んだらしく黙々と食べ続ける。
そうして、とうとうアルファートとほとんど同時に、一枚ぺろりと平らげてしまった。
「気に入ってもらえたみたいでよかったよ」
アルファートはピュティアの勢いに驚きながら、水筒を取り出して渡してやる。
ごくごくと勢いよく水で喉を潤したピュティアは、ふう、と小さく息を吐いた。
「ごちそうさま」
「まだあるよ。もう一枚いるかい?」
返してもらった水筒をベルトの留め具に戻す前に、自身も軽く水をあおり、アルファートはおかわりを尋ねるが、ピュティアは困ったような顔で首を横に振った。
「……おいしいけど。くち、つかれたー」
酷使した顎がいかにもだるいらしく、口を半開きにするピュティア。
いまいち表情に乏しい彼女のそんな様子が妙に愛らしく、おかしくて、アルファートは声を上げて素直に笑った。
「……?」
「ああ、ごめん、何だか可愛らし――」
けげんそうに首をかしげるピュティアに、アルファートが笑った理由を説明しようとしたその瞬間――。
いきなり、二人のそばの砂地が、間欠泉のように高々と吹き上がる。
逆巻く砂塵の柱の中に鎌首をもたげたのは、ミミズやムカデを思わせる長大な胴の魔物だった。
巨大というほどではないものの、子供の頭ぐらいなら丸呑みにできそうな円形の口をもち、さらにその口には、サメのような鋭く長い牙がぐるりと規則正しく並ぶ。
そしてその大口は、今まさに、呆気にとられるピュティアに食らいつこうとしていた。
「――ピュティアッ!」
気をゆるめるには早いと自戒したばかりだった。しかし――完全に虚を突かれた。
心身両面において機先を制されたアルファートには、対応らしい対応をとる余裕などまるでない。ただがむしゃらに、ピュティアを守ろうとその小さな体を突き飛ばす。
ピュティアは、橋の上に尻餅をついた――そんなアルファートの視界内の光景が、いきなり肩口にはしった横殴りの衝撃に押し流されるように、ぐるりと回転する。
「ッ――!」
右肩に食らいついた魔物の勢いに負けて、橋から足を踏み外したのだ――と、砂の池に倒れ込むまでの一瞬、アルファートは自分でも驚くほど冷静に状況を理解していた。
そもそも橋と言っても、庭園に彩りを添えるべく作られたようなものだ。水面と呼ぶべき場所までの落差など一メートルもない。ましてやそこは今、きめ細かい砂に満たされた砂地である。落果による衝撃は、むしろ優しく緩和された。
しかし別の激痛が、右肩から体中に広がる。
牙を突き立てた魔物は、そのまま骨ごと食いちぎろうと、万力のような力で肩を噛み締めてきていたのだ。
筋肉を断ち、骨をごりごりと削る、音とも震動ともつかない悪寒のはしる感触――。
アルファートは思わず叫びだしそうになるのを歯を食いしばって堪え、腰の短剣を抜き放つと、魔物の大口に最も近い、胴の節と節の合間に思い切り刃をねじ込んだ。
魔物はもともといやらしくのたうっていた長い胴を、痛みのためか、青黒い体液を撒き散らしながらさらに激しく暴れさせる。
「は……な……せぇっ!」
それでも肩から離れようとしない魔物に、アルファートはなりふり構わず、青黒い体液にまみれた短剣を動かし、魔物の体を、切るというより力ずくで引き裂いていく。
そうしてようやく傷が致命的なものに至ったのか、長い胴を暴れさせながらも、魔物の口からは力が抜けた。
好機と見て食い付いている牙の間に指を入れ、思い切り引き剥がすと、砂上を転がって距離を取ってから立ち上がる。
右肩からあふれ、したたり落ちる血が、砂に赤く軌跡を描いた。
「――アル! アルっ!」
「大丈夫、大丈夫だから! そこにいて、動いちゃダメだ!」
悲鳴に近いピュティアの声にできる限り力強く答え、先の食い付きで肩紐が噛みちぎられたらしく不安定になったバックパックを放り出したアルファートは、集中を掻き乱されないよう、右肩の焼けつくような痛みを必死に堪えながら、霊子界を認識し、絡鎧する形で断罪騎を顕現させる。
一瞬の淡い輝きを抜け、その身を蒼穹の騎士へと変じるアルファート。
同時に、彼らの周囲に新たな砂の柱が二つ、三つといくつも勢い良く吹き上がる。
(……やっぱり、まだいたか……!)
絡鎧している間、もとの体の傷は存在自体が消えるようなものだが、痛みはやわらぎこそすれ、消えることはない。魂と記憶に直接刻み込まれているのだろう、鋭い痛みが脈打つように響き、全身を巡る。
普通の視界ではない、世界の本質たる霊子界を経た明瞭な視界に、その度に波線のようなノイズが走った。
しかし、行動できないほどではない。アルファートは一瞬で魔物の姿と位置を把握すると、思い切り地を蹴り出す。
砂地は柔らかく、踏み込みを阻害するはずが――蹴立てた砂が煙となって舞い上がる頃には、青い輝きだけを残し、断罪騎はその場から姿を消していた。
刹那――青い軌跡は矢のように疾駆し、白い焔が立て続けに空に閃く。
断罪騎の通り道にいた魔物が二匹、砂中から飛び出した姿勢のままそれぞれ三つに分断されていた。ぼとぼとと砂の上に転がり落ちてからようやく、青黒い体液がにじみ出る。
不安げに忙しなく視線を動かしながらも、言われたとおり橋の上から動かずにいるピュティア。その周囲を常に警戒しつつ、断罪騎は白く燃える双剣を振るい魔物を次々に斬り伏せていく。
しかし、この砂地にはどれだけの数が潜んでいるのか――魔物は後から後から文字通りに涌いて出る。倒した数が十を超えても、砂上に躍り出る姿は減るどころかむしろ増える一方だった。
(こんな……!)
アルファートの心中に焦りが広がる。下手に逃げようとするよりも戦った方がむしろ安全だと踏んだ、その判断は完全に裏目に出ていた。
このままでは精神と肉体、両方の疲労から断罪騎の顕現が維持できなくなり、最悪魔物に取り囲まれたまま昏倒する恐れまで出てきたのだ。
さらにその上、鋭敏になった彼の聴覚が、聞き覚えのある厄介な音を拾う。
それは石を踏みしめる複数の脚甲の音、鎖かたびらと金属鎧が擦れ合う音、そして――人の声だった。
「……おい、こっちだ、急げ! この坂の上だ、何か騒がしい!」
「魔物に足止めされているのかも知れん。ただちに閣下に報告を!」
(追っ手――! こんなときに!)
つづら折りになった坂を駆け上っているのだろう、足音は急激に近付いてくる。
もはや、悩んでいる時間はなかった。
アルファートはすばやく意識を集中し直し、真言を詠む。唇から紡ぎ出される言の葉は貌霊を通じ、霊子界を満たす光る水――周囲の構成真理そのものに、新たな現象を刻み込む。
「よし――吹けっ!」
完成された真言を、アルファートは直ちに実行に移した。
白く燃える双剣が一閃するや、辺りを強烈な突風が吹き荒れる。
それは物を破壊するような力はなくとも、細やかな砂粒を巻き上げ、ごうごうと渦を巻き、文字通りの砂嵐と化して、坂を上りきり視界の端に現れたばかりの追っ手の姿を、荒れ狂う砂の壁の向こうに掻き消してしまう。
だがそうした結果を悠長に確かめているヒマはなかった。
振り返りざま地を蹴った断罪騎は、砂嵐に顔を伏せるピュティアを小脇に抱え上げ、行く手を塞ごうとする魔物を斬り払って退けながら東へ、強化された脚力を頼りに、一気に橋を駆け抜ける。
自らの真言で生み出した強風地帯を抜け、さらに続く砂丘から新たに魔物たちが現れようと、勢いを殺すことなくただひたすらに全力で走る。
やがてたどり着いた庭園の出口は、反対側と同じようにつづら折りの、しかしずっと急な坂道が岩肌沿いに下方へと続いていたが、それも律儀に下ったりはせず、中空にその身を躍らせ、一息に麓へと飛び下りた。
膝をうまく使って衝撃を殺すも、そもそもすでに体を蝕む虚脱感は極限に達しており、視界もノイズどころか、自分の血があふれかえったように真っ赤に染まって危険を訴える有様だ。さすがにすぐさま動くこともできず、一度膝を突くが、それでも少しでも距離を稼ごうと、休みらしい休みも入れずに足を踏み出す。
――結局、彼が足を止め、絡鎧を解除して断罪騎を還したのは、さらに街路を数分間は走り続けてからだった。すでに庭園があった丘陵は地下空間の闇の中に溶け込み、おぼろげな輪郭しか確認できない。
「アル! アルぅっ!」
そっと自分を地に降ろし、もとの姿に戻った途端地面に突っ伏したアルファートに、ピュティアは必死に声を掛ける。
「大丈夫……大丈夫、だから……っ」
アルファートは痙攣する四肢に必死に力を込めて身を起こすと、すぐ近くの建物に背中を預けてよろよろと座り込む。
右肩の傷口が、今まで抑え込んでいた分を倍にして返そうとでもするかのように、焼き印を押しつけられたのかと錯覚するほどの激痛を訴えていた。
「アル、おみずっ……!」
どうすればいいのかとうろたえながらも、ピュティアはアルファートのベルトから水筒を外し、大きく荒く息を吐くアルファートにそっと差し出す。
無言で受け取ったアルファートは、残った水の量を軽く振って確かめてから、その半分ほどを一気にあおる。そして、服の肩口に指をかけ、力任せに引きちぎると、水の残り半分を砂にまみれた傷口を洗い流すのに使った。――端正な顔が苦痛に歪む。
魔物の牙が食い込んだ傷口は、円形に彩られた紋様のように、放射状に肩の肉をえぐっていた。さらに、ぶくりと湧き出す血がすぐさま肌を真紅に染め上げるため分かりづらいが、傷口の周辺は、紫がかった毒々しい青色に変色し始めている。
「やっぱり毒か……。くそっ、早く処置しないと……。
――お願いピュティア、バックパックから……」
言ってすぐ、彼は薬が入っているバックパックを放り出してきたことに気が付いた。
さらに、短剣も魔物を引きはがすのに使ったまま回収しておらず、最悪傷口近くの血管を切り開いて汚れた血を抜き出すという荒療治すらとれないということにも。
このときはさすがに彼も、自分の断罪騎が、身体の構成真理への干渉力がないことに悪態を吐きたい気分だった。それができるなら傷そのものばかりか毒素すら、薬がなくとも真言によって中和することも可能だからだ。
「……あきらめて、たまるか……っ」
アルファートは、とにかく今できることだけでもと、服の裾回りを引き裂き、包帯代わりに、ピュティアの手を借りてぎゅっと強く傷口に巻き付ける。
そして一つ大きく息をつくと、思い切って立ち上がり、壁から離れて歩き始めた。
「アルぅ、どうするの……っ?」
「……進むんだ、先へ。毒だって……すぐ回るわけじゃないし、そんなに……強いものでもないかも知れない。それに、水場が見つかれば、もしかしたら……薬草ぐらい、生えているかも知れないから……ね」
今にも泣き出しそうなピュティアの頭にそっと手を置き、強がりなのがはっきり分かる笑みを見せると、また、アルファートは一歩を踏み出した。




