第9話:パン粥の夜
初めて書く連載ものです。楽しんでもらえたら嬉しいです。
ある日の昼飯で、気づいた。
村人たちがスープを飲んでいる横で、硬いパンを齧っている。黒パンだ。ライ麦を粗く挽いて焼いたもので、石みたいに硬い。噛むたびに顎が痛くなる。
俺も何度か食わせてもらったが、正直、旨くない。味はほとんどない。酸味だけが強くて、ぼそぼそして喉に引っかかる。村人はこれを水で流し込んでいる。
もう一つの主食は煮豆だ。これも味がない。塩をほんの少し振っただけで、ひたすら豆を煮ただけ。腹は膨れるが、食う喜びはない。
パン、煮豆、カブ、水。それがこの村の食事だ。
毎日それだ。毎食それだ。「食べる」というより「口に詰め込む」に近い。
スープが加わったことで栄養は改善された。だが、食事そのものは変わっていない。スープはあくまで「飲み物」で、パンと煮豆の横に置かれるだけだ。
もったいない。
俺はミーナが硬いパンに苦戦しているのを見ていた。小さな手でパンを持って、前歯でガリガリ齧っている。なかなか噛み切れない。
「ミーナ、ちょっと貸してみろ」
ミーナからパンを受け取った。石のように硬い。叩いたらコンコンと音がする。
これをそのまま食うから不味いんだ。
精肉店の隣に、小さなパン屋があった。売れ残りの硬くなったフランスパンを「何かに使えないか」と持ってきたのは、あの店の婆さんだった。俺はそれをスープに浸して柔らかくして食った。フレンチオニオンスープみたいなもんだ。硬いパンは、汁に浸せば化ける。
この村の人間がやらなかった理由はわかる。水に浸したって、ふやけた不味いパンになるだけだ。旨い汁がなければ意味がない。だが今は、骨スープがある。
やってみよう。
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パンをナイフで薄く切った。硬いが、肉屋のナイフなら問題ない。骨を断てる刃だ。パンくらい何でもない。
薄く切ったパンを、煮込み中の骨スープに放り込んだ。
しばらく待つ。パンがスープを吸って、少しずつ膨らんでいく。硬かった表面が柔らかくなり、端から崩れ始める。
おたまで掬ってみた。パンがスープを吸って、粥のようになっている。白濁した汁にパンの欠片が混ざって、とろりとした質感になった。
一口食べた。
旨い。
パンの酸味がスープの旨味で中和されている。ぼそぼそだった食感が、とろとろに変わっている。カブの甘みとパンの穀物の香りが合わさって、素朴だが奥行きのある味になった。
これは日本のお粥に近い。病気の時に母親が作ってくれた、あの優しい味だ。
森胡椒を少し振った。地辛をほんのひとかけ。赤酢は入れない。この料理には酸味より温かさが合う。
「ミーナ、これ食ってみろ」
椀に盛って渡した。パンの欠片が浮いた、白いとろとろの粥。
ミーナが一口食べた。目が丸くなった。
「やわらかい! パンがやわらかい!」
当たり前だ。スープで煮込んだんだから。だが、ミーナにとっては大発見らしい。
「おいしい! これ毎日食べたい!」
ミーナの声が大きかったせいで、近くにいた女性たちが寄ってきた。
「何を食べてるの?」
「パン粥です。硬いパンをスープに浸して煮ただけです」
嘘は言っていない。パンをスープに浸して煮た。それだけだ。スープの出汁の正体については、もう誰も聞かない。
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その晩、広場で鍋を囲んだ。
いつものスープの日とは違った。今日は鍋の中にパンが入っている。村人たちは最初、不思議そうに鍋を覗いていた。
「パンを煮るのか?」
「煮るんです。騙されたと思って食べてみてください」
最初に手を出したのは、いつもの若い衆だった。一口食べて、止まった。
「……旨い。なんだこれ、パンってこんな味になるのか」
「硬くない。柔らかい。歯が痛くない」
年寄りの一人が言った。この村の老人たちは歯が悪い。硬いパンを噛むのに苦労していた。パン粥なら、歯がなくても食える。
女たちが次々に椀を差し出した。子供たちが駆け寄ってきた。
ミーナの母親が、静かに椀を持って並んでいた。あの日、俺を睨みつけた人だ。今は穏やかな顔をしている。
「テッペイさん、うちの分もお願いできる?」
「はい。いくらでも」
パンは余っている。硬くなったパンは捨てるか、水で流し込むしかなかった。だがスープに浸せば、全部食える。食材の無駄が減る。
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鍋が空になった。
村人たちが帰っていく。「おやすみ」「明日もよろしく」という声が聞こえる。
おやすみ、か。
精肉店の閉店時間を思い出した。「ごちそうさま」「また来るよ」という常連の声。シャッターを下ろす前の、あの温かい時間。
似ている。
俺は鍋の底をおたまで掬った。こびりついたパンの欠片を、ガルドの椀に入れてやった。ガルドは鼻を鳴らして舐め取った。
「お前も好きだな、パン粥」
尻尾が揺れた。
ユーリが残っていた。焚き火の前に座って、空の椀を見つめている。
「テッペイ」
「なんだ」
「今日、気づいたことがある」
「何にだ」
「村の連中が、笑ってた」
俺は焚き火を見た。
「飯を食いながら笑ってるの、いつ以来だろうな。少なくとも俺がガキの頃から、食事の時にあんなに声が上がることはなかった」
それが今夜、変わった。
「旨い」と言いながら食う。おかわりを求める。隣の人間と顔を見合わせて笑う。それは食事じゃない。食卓だ。
肉屋にできることは、肉に関わることだけだ。でも、肉に関わることの中に、こういうものがあった。
食い物で人を笑顔にすること。
精肉店の頃、ずっとやっていたことだ。商店街が廃れて、客が減って、それでもコロッケを揚げ続けたのは、買いに来てくれる婆ちゃんたちの笑顔が見たかったからだ。
最後は全部失った。店も、家族も、自分の体も。
でも、この手はまだ覚えている。旨いものを作って、人に食わせて、笑顔を見ること。
それだけは、前の人生から持ってこれたらしい。
明日はパン粥に煮豆を足してみよう。豆の食感が加わればもっと腹持ちがよくなる。森胡椒を多めにして、ピリ辛にしてみるのもいい。
ガルドが横で寝息を立てている。焚き火がパチパチと弾ける。
村の連中が、笑ってた。
それだけで、今日は十分だ。
――焚き火の向こう、森の暗がりに、ガルドのものではない目が光った気がした。
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