第7話:骨と湯気
最初に来たのは、ユーリだった。
ガルドと狩りを始めて三日目の夜。俺が小屋の裏でドライホルンの肉を焼いていると、暗がりから声がした。
「……テッペイ」
振り返ると、ユーリが木の陰に立っていた。目が泳いでいる。
「どうした」
「その……一切れだけ、もらえないか」
あの夜のことだ。ゴブリンの襲撃の最中、半信半疑で口に入れた肉。止まらなくなって貪り食った、あの味。
「いくらでも食え」
ユーリは周りを確認してから、素早く肉を受け取った。一口齧って、目を閉じた。
「……やっぱり、うまい」
「だろう」
「これは非常事態の備えだからな。体力をつけておかないと、次のゴブリンの時に動けない」
言い訳が上手くなっている。まあ、好きに解釈してくれ。
---
翌日の夜には、あの夜一緒に戦った若い衆が二人来た。その次の日にはもう一人。四日目には五人全員が揃った。
最初は隠れていた。俺の小屋の裏で、暗がりの中、こそこそと肉を齧っていた。声を潜めて「うまい」と呟き、骨まで綺麗にしゃぶって帰っていく。
だが、日が経つにつれて大胆になっていった。隠れる場所が小屋の裏から焚き火の前に変わった。声が小さな呟きから、笑い声に変わった。
当然、バレた。
老人たちが怒った。
「禁忌を破るとはどういう了見だ」
若い衆は肩をすくめた。
「あの夜、ゴブリンと戦えたのは肉のおかげだ。食わなきゃ俺たちは死んでた」
「だからといって、毎晩食っていい理由にはならん」
正論だ。だが、正論で腹は膨れない。若い衆はやめなかった。村の空気がピリピリし始めた。
---
子供たちが焚き火の周りをうろつくようになった。ミーナが一番先頭だ。鼻をヒクヒクさせて、こちらを見ている。
「テッペイおじさん、それ何?」
「肉だよ」
「食べてみるか?」
ミーナの手が伸びかけた。だが、後ろから母親の声が飛んできた。
「ミーナ! 来なさい!」
母親が走ってきて、ミーナの手を引っ張った。俺を睨みつける。
「この子に変なものを食べさせないで」
連れ去られていくミーナが、振り返ってこちらを見ていた。
まずいな。このままだと村が分断される。肉を食う若者と、食わない大人。食べたいのに食べられない子供たち。
---
ガルドの横で焚き火を眺めながら、考えた。
肉そのものがダメなんだ。見た目が肉で、匂いが肉で、「肉を食っている」という事実が禁忌に触れる。
だったら、肉じゃなきゃいいんじゃないか。
精肉店時代を思い出す。肉が苦手な客にはコロッケを出した。揚げ物にすれば肉の匂いが衣に包まれる。だが、ここには油もパン粉もない。
もう一つ、やり方がある。スープだ。
骨を煮込んだスープなら、肉の匂いは薄まる。長時間煮込めば臭みは飛ぶ。残るのは旨味だけだ。
肉を食わせるんじゃない。旨い汁を飲ませるんだ。そして「肉じゃない、スープだ」と言えば、禁忌に正面から逆らわずに済む。みんなが自分を騙すための、都合のいい逃げ道だ。
---
早速、骨を持ち帰った。背骨、肋骨、大腿骨。全部だ。
鍋を借りて、骨を割った。中から髄が見える。これが旨味の源だ。水を入れて火にかけた。アクを丁寧にすくい取る。この工程を怠ると臭みが残る。
朝から煮込んだ。アクを取り続けて、昼を過ぎた頃、汁が白く濁ってきた。生臭さが消えて、甘くて深い香りに変わる。
村の女にカブを二つ分けてもらった。皮を剥いて、ざく切りにして鍋に入れる。塩をひとつまみ。さらにしばらく煮込んだ。
日が傾く頃にはカブが崩れるほど柔らかくなっていた。一口飲んだ。
旨い。塩とカブだけとは思えない深い旨味。骨髄の脂がコクを出し、カブの甘みが全体をまとめている。
これなら、いける。
---
夕方、広場にミーナがいた。母親も近くにいる。ちょうどいい。
俺は鍋を持って広場に出た。
「ミーナ、カブのスープだ。飲んでみるか」
ミーナの目が輝いた。だが、母親がすぐに立ち上がった。
「待ちなさい。また肉を食べさせるつもり?」
「肉じゃありません。スープです。カブのスープ」
俺は鍋の蓋を開けた。白い湯気が立ち上る。カブの甘い匂い。肉の匂いは、湯気の奥に隠れている。
母親は鍋を覗き込んだ。木のおたまで中を掬い、じっと見ている。白い汁と、崩れかけたカブの欠片。それだけだ。
「……カブしか入ってないわね」
母親はまだ迷っている。
「いいから、あなたも飲んでみなさいって」
椀に少しだけ注いで渡した。母親は恐る恐る一口飲んだ。
目を閉じた。
「……おいしい」
声が小さかった。驚いている。
「こんなに美味しいスープ、飲んだことがない。カブだけでこんな味が出るの?」
「煮込み方にコツがあるんです」
ミーナが母親の袖を引っ張った。
「ミーナも飲みたい! ママばっかりずるい!」
母親は娘を見た。それから俺を見た。小さくため息をついて、頷いた。
ミーナに椀を渡した。両手で持って、ふーふーと息を吹きかけてから、一口。
大きな目がさらに大きくなった。
「おいしい! もっと!」
母親の顔が緩んだ。自分の娘が、こんなに嬉しそうに何かを食べている。それを見る母親の目は、禁忌とか不浄とか、そういうものとは別の場所にあった。
---
翌日、ミーナの母親が近所の女性二人を連れてきた。
「この人のスープ、本当に美味しいの。試してみて」
三人に飲ませた。一人は黙って椀の底を覆き込み、一人は隣と顔を見合わせ、最後の一人はもう椀を差し出していた。
「嘘でしょ、これがカブだけ?」
「カブと塩と水です」
嘘は言っていない。言っていないだけだ。
肉を食べている若い衆を怒っていたはずの女たちが、スープの鍋の前に並んでいる。矛盾しているが、誰も気にしていない。だって、これはスープだから。肉じゃないから。
俺はわざと声に出して言った。
「肉じゃないですよ。スープです。カブのスープ」
腹を空かせていた人たちは、どこかで気づいていたのかもしれない。若い衆が肉を食ってうまそうにしているのを、羨ましく思っていたのかもしれない。でも禁忌がある。人の目がある。手を出せない。
そこに「スープだから大丈夫」という言い訳が転がり込んできた。
三日目には、広場で鍋を囲む女性が五人になった。四日目には老人が二人加わった。
五日目には、ユーリが来た。
「テッペイ、俺にもそのスープを飲ませてくれ」
「お前は肉を焼いて食ってるだろうが」
「これは肉じゃない。スープだ。別物だ」
ユーリは真顔で言った。何の冗談だ。だが、これがこの村の流儀なのかもしれない。肉は肉。スープはスープ。同じ動物から出ていても、形が変われば名前が変わる。
ユーリに一杯渡した。飲んで、固まった。
「……旨い。カブってこんなに旨かったのか」
「カブは偉大だからな」
俺は真顔で答えた。カブは偉大だ。骨の出汁を吸ったカブは、もっと偉大だ。
---
一週間後、村の半分の人間がスープを飲んでいた。
若い衆は相変わらず肉も食っている。女や老人はスープだけ。子供たちは毎日走ってくる。村のあのピリピリした空気は消えていた。
ベルントだけは飲まなかった。だが、広場で鍋を囲む村人たちを遠くから眺めていた。
俺はベルントのところに椀を持っていった。
「あんたも一杯どうだ」
ベルントは椀を見た。白濁した汁。カブの欠片。湯気。
「何が入っている」
「カブと塩と水だ」
「それだけか」
俺は黙った。
ベルントは俺の目をじっと見た。俺は目を逸らさなかった。
ベルントは椀を受け取って、一口飲んだ。
長い沈黙があった。
「旨いな」
「ああ」
それだけだった。ベルントは椀を空にして返した。何も聞かなかった。
村長が飲んだという噂はすぐに広まった。翌日から、残りの村人も次々に飲みに来た。
---
ある晩、ベルントが俺の小屋に来た。
「テッペイ」
「なんだ」
「あのスープに、骨が入っているだろう」
直球だった。黙るしかない。
しばらくの沈黙の後、俺はふーっと息を吐いた。観念した。
「……バレてたか」
「最初からわかっていた。あの旨味はカブだけでは出ない」
「……出ていった方がいいか」
ベルントは首を振らなかった。だが、頷きもしなかった。
「お前が一人で食う分には仕方がないと思っていた。若い連中が食いたがるのも、止められるものじゃない。だが、スープは違う。あれは村全体に食わせようとする意図が見える」
図星だ。何も言い返せない。
「なぜだ。なぜそこまでする」
俺は少し考えてから、正直に言った。
「この村は食い物が足りていない。豆とパンだけじゃ、体が持たない。子供は痩せてるし、女たちは顔色が悪い。あんただって気づいてるだろう」
ベルントは黙っていた。
「次の新月にまたゴブリンが来る。あの時と同じことが起きる。今の体じゃ、戦うどころか逃げるのも危ない。食を変えないと、この村は持たないと思った」
長い沈黙があった。
ベルントは何も言わなかった。賛成とも反対とも言わなかった。ただ、否定しなかった。
「……外に漏れないようにしろ。この村だけの話なら俺が抑える。だが、王国の目に触れれば面倒なことになる」
「わかった」
ベルントは扉に手をかけて、振り返った。
「あのスープは、旨かった」
扉が閉まった。
俺は焚き火の前でため息をついた。ガルドが横で寝息を立てている。
村人の顔色が少しずつ変わっていた。痩せこけていた頬にわずかに肉がついてきた。目の下のクマが薄くなった。子供たちが走り回る声が増えた。
骨髄の栄養だ。脂肪、カルシウム、コラーゲン。煮豆と硬いパンだけの食事に、動物性の栄養が加わった。変化は地味だが確実だ。
明日もスープを作ろう。骨をもっと長く煮込んで、もっと旨い汁にしよう。
この村の連中に、もっと元気になってもらわなきゃ困る。次のゴブリンが来た時に、逃げるにしても体力がいるんだから。




