【番外編】銀狼が見た、肉を焼く男
『肉屋のおっさん』本編、完結いたしました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
ここからは、本編のあの相棒——銀狼ガルドの視点で綴る、番外編です。
テッペイと出会う前、そして出会ってから。あの尊大なもふもふが、何を考えていたのか。本編を読んでくださった方への、ささやかなおまけです。
我は森の覇者である。
銀灰色の毛並みと、額に刻まれた青き魔力の紋様。我ら銀狼一族は上位の魔獣であり、人間という脆弱な生き物など、路傍の石に等しかった。
だが、その日の我は最悪の窮地に陥っていた。
事の発端は、下等な群れ獣の狩りだった。いつもなら容易く仕留められるはずが、群れが思いのほか激しく反撃してきたのだ。雷の魔法で蹴散らしたものの、その隙を突いて別の高位魔獣が横やりを入れてきた。
不意打ちを食らい、手傷を負いながらもそいつの喉笛を噛み砕いて勝ちはした。だが、油断した。血の匂いに誘われて、巨大な食虫植物の罠に足を踏み入れてしまったのだ。
普段なら一息で噛み千切れる蔓だが、疲労と傷で体が動かない。ギリッ、と蔓が締め上げ、傷口に消化液が染み込む。覇者たる我が、こんな意思を持たぬ草木に養分としてすすられるとは。
薄れゆく意識の中、カサッ、と落ち葉を踏む音がした。
そこにいたのは、みすぼらしい布きれを纏った、くたびれた人間の雄だった。剣も魔力も覇気もない。
(ふん……草に一緒に食われるつもりか)
しかし男は、我の威嚇を気にも留めず歩み寄ると、小さな刃物を取り出した。
「動くなよ」
男は蔓の「繊維の目」を正確に見極め、刃の角度を合わせてすっ、と引いた。プツリ。力任せではなく、ただ純粋な「切り分ける職人技」によって、我が苦しめられていた蔓があっけなく切断されていく。
戒めが解け、崩れ落ちた我の傷口に布を巻き、男は水を飲ませてくれた。なぜ殺さないのか。人間ならば、弱った魔獣の毛皮や牙を奪うはずではないか。全く理解できない。
「これも食え」
次に男が差し出したのは、赤くない、奇妙な色の肉の塊だった。我ら魔獣は生肉を食う。火で焦がした肉など食えたものではない。
だが、その肉から漂う匂いは、野生の本能を狂わせるほどに抗いがたいものだった。我はたまらず、口に放り込んだ。
――!?
噛み締めた瞬間、濃厚な脂の甘みと肉汁が口の中に溢れ出した。なんだこれは。火を通すことで、肉の旨味が極限まで凝縮されている。生肉の血生臭さはなく、ただ純粋な「美味」だけがそこにあった。我が今まで食ってきたものは、ただの餌に過ぎなかったというのか!
一瞬で平らげ、もっと食いたいと立ち上がった我を見て、男はガタガタと震え始めた。
「や、やめろよ……。俺は酒浸りだったから、肉も硬くて、全然美味くないぞ……」
呆れた。あんな美味なる肉を持っていながら、自分の価値を全く理解していない。不味そうな中年の肉など食う気にもなれず、我はふいっと振り返って森の奥へ去った。
数日後。傷が癒えた我は、猛烈に『あの肉』を欲していた。
(なんだ、簡単なことだ。火を使えばいいのだろう)
我は自分で狩った鹿型の魔獣の肉塊に、魔力で炎を放った。
ごうっ、と肉が黒焦げになる。よし、これであの美味が……と齧り付いた瞬間、我は顔をしかめた。
表面は炭のように苦く、中は冷たい生焼け。焦げた血の臭みが鼻を突く。
(なんだこれは! 全然違うではないか! なぜだ、ただ火で焼けばいいのではないのか!?)
ペッ、と不味い肉を吐き捨てた我は、腹立たしさと絶望に苛まれた。あの男が持っていた肉には、何か特別な魔法がかかっていたに違いない。
ああ、あの肉が食いたい。どうしても食いたい。我は狂おしいほどの飢えを抱え、森の中を彷徨い続けた。
そして、ある日のこと。
森の境界付近で、ざわざわとした不快な空気を感じ取った。下等生物のゴブリンどもの群れだ。普段なら気にも留めないが――その風下から、どこからともなく『あの匂い』が漂ってきたのだ。
――あの時の肉の匂いだ!!!
我は弾かれたように駆け出した。木々をなぎ倒し、全力で匂いの元へダッシュする。
森を抜けると、人間の村があった。ゴブリンどもが粗末な防壁の前に群がり、人間たちと戦っている。
その防壁の奥。焚き火のそばで、あの匂いを放つ肉のそばに立ち、人間どもと共に戦っている『あの時の男』の姿があった。
(いたァァァァァァッ!!)
我は歓喜に震えた。
だが、手前に群がっている緑色の下等生物どもがひたすらに邪魔だ。うるさい。男のところへ行けないではないか。
我は咆哮を上げると、ゴブリンの群れへ突撃した。爪で引き裂き、牙で噛み砕き、雷の魔法でまとめて吹き飛ばす。ただ肉が食いたいという執念の前に、ゴブリンどもは悲鳴を上げて散らされていった。
あっという間に群れを蹴散らし、我は男の前へ降り立った。
人間たちは恐怖で腰を抜かしているが、知ったことではない。我は男の前に座り込み、バンバンと尻尾を振って要求した。
(おい、人間の男。またあの肉を食わせろ!)
男は驚いたようにまじまじと我を見ていたが、やがて震える手で、焼きたての肉を我の前に放り投げた。
我は夢中で齧り付いた。
――熱ッ!? 舌が焼けるほど熱い! だが、この熱さの奥から、あの時とは比べものにならない肉汁が溢れ出してくる! あの時は冷めた肉だった。それでも我の世界を変えるほど美味かった。だが焼きたてはその何倍も……!
――うめぇぇぇぇぇっ!!
口いっぱいに広がる極上の肉汁。我は確信した。もう、あの血生臭い生肉だけでは満足できない体になってしまったのだ。
我は満足げに鼻を鳴らし、男をじっと見つめた。
(よし、奇妙な人間よ、喜べ。お前がその美味なる肉を献上し続ける限り、我がお前の相棒となってやろう!)
こうして我ら銀狼一族の誇り高き覇者は、美味い肉と引き換えに、人間の男の隣に居座ることを決めたのだった。
――のちに、この男が定住した村で、我の目の前に大量の美味なる肉料理が積まれ、気づけば子供たちに尻尾をブラッシングされる日々が始まろうとは、――それは、また別の話だ。




