【番外編】ミーナと、もふもふ
番外編、後編です。前回に続き、銀狼ガルドの視点でお届けします。
今回は、村の小さな女の子・ミーナとの物語。森の覇者を自称するガルドが、幼子にどう振り回されるのか——どうぞ最後までお付き合いください。
あの肉を焼く男――テッペイの隣に居座ると決めてから、しばらくが経った。
人間どもの集落での暮らしは、悪くない。毎日極上の肉が食える。それだけで、森の頂点に君臨していた頃よりも食事の質は圧倒的に上だ。
だが、一つだけ厄介な問題があった。
「ガルドー! ガルドー! どこー!」
小さな人間の子供が、今日も我を探し回っている。名をミーナという。年は人間の基準で五つか六つか、そのあたりだろう。
この子供が、厄介なのだ。
我のことを怖がらない。それどころか、初日から「わぁ、もふもふ!」と突進してきた。我は森の覇者である。銀狼一族の誇り高き戦士であり、雷の魔法を操る上位の魔獣だ。「もふもふ」ではない。
だが、それよりもっと厄介なことがある。
この子供は、我の「世話」を焼こうとするのだ。
世話。
この我の、世話を。
「ガルド、じっとしてて。毛にゴミついてるから取ってあげる」
「ガルド、お水飲んだ? 喉渇いてない? はい、お水」
「ガルド、ここ怪我してる! 待ってて、お薬の草とってくるから!」
まるで、我が子供で、自分が母親のような振る舞いだ。自分の体の何倍もある巨大な我に向かって、腰に手を当てて偉そうに指図してくる。
(やめろ。我は森の覇者だ。お前に世話されるような立場ではない)
唯一の救いは、ミーナの母親、ニーナだ。
この人間の母親は、我にミーナを近づけることを固く禁じている。ありがたい。
「ミーナ! あの狼に近づいちゃ駄目だって言ったでしょう!」
(そうだ。もっと言ってやれ。我も同意見だ)
ニーナが叫ぶたびに、ミーナは「はーい」と素直に返事をして、母親の元へ走っていく。よし。これで静かになる。
……と思いきや、ニーナが背を向けた瞬間に、こっそり戻ってくるのだ。
「しーっ。ガルド、静かにしてて。ママに見つかっちゃう」
我に向かって人差し指を唇に当てる。金色の瞳が、いたずらっぽく光っている。
(何が「しーっ」だ。我が黙っていようがいまいが、お前の母親の目は誤魔化せんぞ)
だが、ミーナは器用だった。
ニーナが洗濯をしている間に、こっそり我の毛並みを梳く。
初めて梳かれた時のことは、不覚にも覚えている。小さな木の櫛で、毛並みに沿って丁寧に梳かれた瞬間、尻尾がぱたぱたと揺れてしまったのだ。
(な……っ!? 何だ今のは! 我の意思ではない!)
「わぁ、ガルド嬉しいんだね! 尻尾ぶんぶんしてる!」
(違う! これは反射だ! 覇者にも制御できない生理現象というものがある!)
だが、ミーナはもう聞いていなかった。「ガルドは撫でられるのが好き」という誤った結論を確信し、それ以来、毎日欠かさずブラッシングに来るようになった。
ニーナが井戸で水を汲んでいる間に、こっそり我の前脚の傷に薬草を塗る。
ニーナが他の母親たちと話し込んでいる間に、こっそり水を運んでくる。
小さな手で、木の器に水をなみなみと注いで、よたよたと運んでくる。半分くらいこぼしている。だが、我の前にたどり着くと、得意げな顔で器を差し出すのだ。
「はい、ガルド。いっぱい飲んでね。大きくなるよ」
(我はもう十分に大きい)
何が厄介かというと、この子供の手が、異常に丁寧なのだ。
毛並みを梳く時、絡まった部分を力任せに引っ張らない。薬草を塗る時、傷口の周りをそっと撫でてから塗る。水を差し出す時、我が飲みやすい高さに器を持ち上げる。
まるで、生き物の扱いを知っているかのように。
ある時、テッペイに聞いた(正確には、テッペイが独り言のように呟いたのを聞いた)。
「あの子は昔、村で飼ってた山羊の世話をしてたんだ。毎日水をやって、毛を梳いて、怪我をしたら薬草を塗って。……山羊が死んだ時、三日間泣いてたらしい」
山羊。あの下等な家畜と同列に扱われているのか、我は。
……だが、あの手つきの理由はわかった。
ある日のこと。
朝から、ニーナがミーナの手を引いて森の方へ向かっていった。薬草取りだという。村の外れの森の浅い場所に、傷薬に使う草が生えているらしい。
我はいつものように広場の隅で寝転がっていた。テッペイが朝の仕込みをしている横で、日向ぼっこだ。覇者にも休息は必要だ。
昼を過ぎた頃、村の入り口の方から悲鳴が聞こえた。
「誰か! 誰か助けてぇぇっ!!」
ニーナだった。
息も絶え絶えに走ってきたニーナは、広場に倒れ込むように駆け込んできた。顔は涙と泥で汚れ、膝から血が出ている。転びながら走ってきたのだろう。
「ミーナが……ミーナがいなくなったの! 薬草を摘んでいる間に……ガルドの傷に効く草を見つけたって言って、少し奥へ……目を離した隙に……!」
テッペイが仕込みの手を止め、すぐにニーナの元へ駆け寄った。ユーリやベルントも集まってくる。ニーナは震える手でテッペイの腕を掴み、声を絞り出した。
「探したの……何度も名前を呼んだの……でも返事がなくて……森が深くて、私、これ以上奥に入れなくて……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
ニーナが崩れ落ちた。
テッペイの顔から血の気が引いた。ユーリが「すぐに捜索隊を」と叫び、ベルントが若い衆に声をかけ始めた。
我は知っている。あの森の奥がどういう場所か。
下等なゴブリンが巣を作り、毒蟲が地面を這い、牙持ちの魔獣が縄張りを徘徊している。消化液を垂らす食虫植物もある。我のような上位の魔獣であれば何ということはないが、小さな人間の子供が一人で迷い込めば、日が暮れるまで無事でいられる保証はない。
我は、むくりと立ち上がった。
広場の人間どもが、一斉にこちらを見た。
我は鼻を高く上げ、風の匂いを嗅いだ。
……いた。
微かだが、あの小さな人間の匂いがする。花と、汗と、あの木の器に残った水の匂い。何度も我の毛並みに顔を埋めていた、あの子供の匂い。
森の東。かなり深い。だが、わかる。
我は振り返らず、歩き出した。
「ガルド!」
テッペイの声がした。我は足を止めない。
「……わかった。頼む」
テッペイがそう言って、我の後を追ってきた。走りながらナイフを腰に差し直している。ユーリも続いた。
我は人間どもの足に合わせるつもりはなかった。だが、我が匂いを確かめるたびに立ち止まったせいで、テッペイは息を切らしながらも遅れずについてきた。
あの子供は、まだ生きている。
どれくらい走っただろう。
森の深い場所、古い大木の根元で、小さな塊がうずくまっているのが見えた。
ミーナだ。
膝を抱えて、泣きもせず、じっと座っていた。服は泥だらけで、腕に小さな擦り傷がいくつかある。だが、大きな怪我はない。
我が近づくと、ミーナがゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
「……ガルド」
ミーナの大きな目に、じわっと涙が溜まった。だが、泣き叫ばなかった。
次の瞬間、ミーナは立ち上がり、我の首にガシッとしがみついた。小さな腕で、銀色の毛皮をぎゅうっと掴んで、離さない。
「ガルド……来てくれたの……こわかった……ひとりで……こわかった……」
冷たい。この子供の手が、冷たい。ずっとここで、一人で座っていたのだろう。
声を殺してしゃくり上げるミーナの体が、小刻みに震えている。
(もういい。お前は無事だ。我がいる)
そこに、テッペイが追いついてきた。木々の間から飛び出し、ミーナの姿を見つけた瞬間、膝から崩れ落ちそうになりながらも駆け寄った。
「ミーナ!! 無事か!!」
「おっちゃん……」
ミーナが我の毛皮から顔を上げ、テッペイの方へ手を伸ばした。テッペイがミーナを抱き上げ、きつく、きつく抱きしめた。
「バカ野郎……心配させやがって……」
テッペイの声が震えていた。大の男が、小さな子供を抱えて、目を赤くしている。
我は静かにその場に座り、二人を見ていた。
テッペイがミーナを抱えたまま、我をじっと見つめた。
「……ガルド。お前がいなかったら、間に合わなかった」
我は鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
村に戻ると、ニーナが広場の入り口で膝をついて待っていた。
テッペイに抱かれたミーナを見た瞬間、ニーナの目からぼろぼろと涙がこぼれた。駆け寄って、ミーナをテッペイの腕から受け取り、何度も何度も頬にキスをした。
「ミーナ……ミーナ……よかった……!」
「ママ……ごめんなさい……」
しばらく母子が泣きながら抱き合っているのを、我は少し離れた場所から見ていた。
やがて、ニーナがゆっくりと顔を上げた。涙で赤くなった目が、まっすぐに我を見た。
ニーナは立ち上がり、ミーナを抱いたまま、我の前まで歩いてきた。
そして、そっと膝をついた。
「……ありがとう」
小さな、震える声だった。
「ミーナを……守ってくれて……ありがとう……」
ニーナの手が、おそるおそる、我の額に触れた。怖がっている。手が震えている。だが、それでも触れた。
(……ふん)
我は小さく鼻を鳴らした。それだけだ。
その夜から、ニーナはミーナが我に近づくことを止めなくなった。
「ガルド、今日はね、ママがお水持ってきてくれたよ!」
ミーナが嬉しそうに報告してくる。その後ろで、ニーナが気まずそうに木の器を持って立っていた。
(……お前の母親も、なかなか面倒な生き物だな)
我は鼻を鳴らして、差し出された水を飲んだ。
ミーナが隣に座って、いつものように毛並みを梳き始めた。
「ガルド、じっとしてて。今日は特別にきれいにしてあげるからね」
(我は森の覇者だ。お前に世話される筋合いなど……)
尻尾が、ぱたぱたと揺れた。
……覇者にも制御できない生理現象は、確実に悪化しているようだった。
「肉屋のおっさん」、これにて完結です。本当にありがとうございました。
次回作の準備を進めています。今度の舞台は、戦国時代の日本です。
歴史を研究していた青年が、桶狭間の戦いの十年前に飛ばされてしまう。彼は歴史を知っているから、今川がやがて滅びることも、目の前の恩人がいつ死ぬかも知っている。「歴史は変えてはいけない」と思いながら、それでも目の前の人を放っておけずに、少しずつ国を変えてしまう——。
鉄平が肉と商いで村を変えたように、今度の主人公は「焼かない、殺さない、奪わない」やり方で、戦国の世にもう一つの国を作ろうとします。
この作品を楽しんでくださった方なら、きっと気に入っていただけると思います。近日公開予定です。




