【第66話】竜の遺した火種
翌朝。ファルケンシュタイン城の中庭で石畳の上に丸くなっていた竜が、ゆっくりと巨大な体を起こした。
城の者たちは一睡もできず、城壁の上や廊下の陰からその様子を息を潜めて窺っていた。そんな張り詰めた空気の中、テッペイだけは鉄板の横で毛布に包まって爆睡し、ガルドは竜の腹にくっついて丸くなっていた。
「グルルゥ……」
竜は大きく欠伸をした。その口から洩れた熱風が鉄板の横を直撃し、テッペイの毛布がめくれ上がって宙を舞った。
「ぬわっ!? ……あっつ! なんだ、朝か……」
毛布を奪われて石畳の冷たさに跳ね起きたテッペイが、目を擦りながらあくびの主を見上げる。寝ぼけ眼のまましばらく竜と見つめ合い、やがて状況を思い出したらしく、のっそりと鉄板の上の灰を片付け始めた。
竜の金色の瞳が、そんなテッペイを一瞥した。
「ひでえ目覚ましだな……。もう焼く肉は残ってねえぞ」
『フン』
竜は鼻を鳴らした。そして足元で尻尾を振るガルドの鼻先に軽く自分の鼻を押し当てると、巨大な翼を広げた。
突風が吹き荒れ、砂埃が舞い上がる。
竜は周囲を囲む人間の軍勢や城などには一切の興味を示さず、東の山脈へ向かって一直線に飛び去っていった。ただ飯を食い、友の無事を確認しただけで、あっさりとねぐらへ帰還したのだ。
「……行ったか」
城壁の上で、レオンが安堵の息を吐きながら剣を下ろした。
城の外に目を向ければ、すでにザイデル軍の姿はない。竜の咆哮で前線部隊が恐慌状態に陥り、総崩れとなったことで、本陣も城の包囲を諦め撤退を余儀なくされたのだ。
ファルケンシュタイン城は、絶望的な包囲戦を生き延びた。
だが、傍らに立つ辺境伯の顔に喜びの色はない。その双眸は、遠ざかる竜の影を険しい表情で見据えていた。
「閣下……包囲は解けました。我々の勝利です」
「いや。戦いは終わっていない」
辺境伯は重々しい声で首を横に振った。
「ザイデル公がこの状況を利用しないはずがない。むしろ、奴にとっては最高の口実を与えてしまった」
「口実、ですか?」
「『辺境伯は禁忌の魔獣肉で私兵を強化し、あろうことか竜まで使役して王家に刃を向けようとしている』……。奴は今頃、王都へ向けて早馬を走らせているだろう」
レオンの顔から血の気が引いた。
ガルド一匹でも「魔獣を私兵化している」と非難されていたのだ。それが竜となれば、言い逃れは不可能に近い。竜がただ飯を食いに来ただけだと言っても、世間がそれを信じるはずがない。
「このままでは、我々は『反逆者』として王家から討伐軍を差し向けられることになります」
「うむ。ザイデル公の狙いはそこだ。辺境伯軍を孤立させ、王家の名の下に我々を潰す。政治の場では、真実よりも恐怖の方が早く広まるからな」
城の中庭では、テッペイがユーリやトーマス、ヴァルターと共に、片付けを終えて馬車に荷物を積み込んでいた。
辺境伯はその姿を見つめ、静かに息を吐いた。
「ルーンハルト村の特区は、いかなる犠牲を払っても守り抜かねばならん。あれは、この国の未来そのものだ」
*
その日の午後、俺は荷馬車を引いてルーンハルト村へ帰還した。
村は静まり返っていたが、被害はなかった。ザイデル軍はファルケンシュタイン城の包囲に全力を注いでおり、村の防備の固さもあってか、手が回らなかったのだ。
「おっちゃん!」
広場に入ると、ミーナが駆け寄ってきた。その後ろから、村長のベルントも安堵の表情で近づいてくる。
「無事だったか、ミーナ。村はどうだ?」
「うん! みんな怪我一つないよ。でも、市場街からお客さんが来てるんだ」
「お客さん?」
俺とトーマスが馬車を降りると、広場の奥に見慣れたゲルハルトの馬車が停まっていた。
そして、その後ろからは木箱を軽々と抱えた、いつものエプロン姿のマルタが歩いてくる。
「無事でよかったよテッペイ! それに兄貴も、無茶ばかりしてさ!」
相変わらずの快活な笑い声と共に、マルタが木箱を地面に下ろしてトーマスの肩を小突く。その背後から、行商人のゲルハルトが歩み寄ってきた。
「ゲルハルトに、マルタ。どうしてここに? 市場街の店はどうしたんだ」
「ええ、そのご報告に上がったんですよ」
ゲルハルトが一歩前に出て、声を潜めた。
「フェルゲン商会の連中、夜逃げ同然で市場街から消えましたよ」
ゲルハルトの言葉に、俺は思わず聞き返した。
「消えた? どこへだ」
「王都です。ザイデル公の敗残兵たちと一緒に逃げ延びたようです。ディートリヒ商会長と、あのブルクハルトも一緒だったと」
マルタが腕を組み、鼻を鳴らす。
「市場街のフェルゲン商会はもうもぬけの殻さ。これで流通の邪魔者は消えたってわけだけど、どうにも薄気味悪くてね。一応、あんたの耳にも入れておこうと思ってさ」
商業戦争における一時的な勝利。だが、俺の胸騒ぎは消えなかった。
あのブルクハルトとディートリヒが、ただ逃げるだけで終わるはずがない。
俺が顔をしかめた、その時だった。
村の入り口から、土埃を上げて一騎の早馬が駆け込んできた。
馬に乗っていたのは、辺境伯軍の伝令だった。彼は馬から転げ落ちるようにして俺たちの前に走り寄り、息を切らせながら叫んだ。
「て、テッペイ殿! 辺境伯閣下からの伝令です!」
「どうした、そんなに慌てて」
伝令の兵士は、恐怖に顔を引きつらせていた。
「王命なき戦を止めるべく、国王陛下は半月前より自ら軍を率いて西進しておられました。そこへザイデル公が『辺境伯は竜を使役し謀反を企てている』と奏上し……」
「……なんだと?」
俺の顔から血の気が引いた。マルタとゲルハルトも息を呑んだ。
逃げた連中は、ザイデル公の「反逆の証人」として利用されたのだ。
「陛下の軍は、まもなくこのルーンハルト村に到着します!」
広場が静まり返った。
国王の親征。それは、辺境伯という一介の地方領主に対する処置としては異常事態だった。通常は王に反逆する大規模な勢力に対してのみ行われるものであり、王都軍の総力を挙げた徹底的な制圧を意味する。
「王様が、自分で出てくるってのか……」
俺は東の空を見上げた。竜が飛び去った空は、何事もなかったかのように青く澄んでいる。
あの竜が落としていった火種は、ついに国そのものを動かしてしまった。
「おっちゃん……どうなるの?」
ミーナが不安そうに俺の袖を掴む。
俺はミーナの頭をぽんぽんと撫でると、大きく息を吐き出した。
「どうにもならねえよ。俺たちは肉屋だ。王様が来ようが、竜が来ようが、やることは一つしかねえ」
俺は、広場に設営された石造りの竈を見つめた。
政治も戦争も関係ない。自分は自分のやり方で、この困難を乗り越える。
「最高に美味い肉を焼いて、腹一杯食わせる。それだけだ」
二百年間続いた肉食禁忌の嘘。
その嘘を戴く国の王が、いよいよこの村に足を踏み入れる。
俺は包丁を手に取り、決意の瞳で王都へと続く街道を見据えた。




