【第65話】煙と竜
鉄板が赤く焼けた。
俺が干し肉の塊を包丁で薄く削ぎ、鉄板の上に並べた瞬間、ジュッという音と共に白い煙が立ち上った。
塩だけ。余計な味付けなど要らない。三日もまともな飯を食っていない人間に必要なのは、脂と塩と、熱だ。
最初に寄ってきたのは、中庭の片隅で壁に背を預けていた歩兵だった。包帯だらけの腕で槍を抱えたまま、匂いに引き寄せられるように足を引きずってくる。
「……何だ、この匂いは」
「食え」
俺は焼き上がった肉を木の皿に載せ、兵士の前に差し出した。兵士は震える手で肉を掴み、口に入れた。一度、二度と顎を動かしたところで、その目から涙がこぼれた。
一人が食えば、匂いが広がる。広がれば、人が来る。
中庭に兵士が集まり始めた頃、城の奥から足音が近づいた。
「何事だ、この匂いは……」
バイエル辺境伯が、松明を持った近衛兵に先導されて中庭に姿を現した。疲労で頬がこけている。その後ろには、白い調理服に身を包んだ大柄な男――料理長ヴァルターがいた。
「おお……テッペイよ、よく来てくれた……」
辺境伯は絞り出すような声で言ったが、その両目は俺の顔ではなく、鉄板の上で音を立てる肉に完全に釘付けになっていた。
「閣下。俺はただの肉屋ですが、飢えた兵隊に飯を食わせることくらいはできます。やらせてください」
「……頼む。何でもいい、早くこの城の者たちに食わせてやってくれ」
辺境伯が深く頭を下げた。俺は一瞬たじろいだが、すぐに鉄板に向き直った。
その時、ヴァルターが黙って歩み寄り、俺の隣に立った。
「……手伝わせてくれ。手紙で教わった通り、腸詰は切れ目を入れて脂を出した方が早く火が通るんだったな」
「へっ、よく勉強してんじゃねえか。筆まめな料理長殿だ」
「師匠が良いからな。さあ、どんどん焼くぞ」
以前、俺の腕を認めながらも厨房から追い出した男が、今度は弟子のように同じ鉄板の前に並んでいる。
ヴァルターが腸詰に斜めの切れ目を入れると、熱い鉄板の上でパチパチと脂が弾け始めた。皮の切れ目から透明な脂が滲み出し、鉄板の上で泡立ちながら焦げていく。あたりに広がる、獣脂の甘い匂い。
俺は燻製肉の塊を取り出し、包丁を一閃させた。断面から赤黒い肉汁が滴る。それを鉄板に並べると、ジュウウッと低い音が鳴り、肉の表面が一瞬で縮んだ。燻製の香りと焼けた脂の匂いが混ざり合い、中庭の空気が一変する。
「厨房に塩と乾燥ハーブが残っているはずだ。取ってこさせる」
ヴァルターが近衛兵を走らせ、戻ってきた塩壺から粗塩をひとつかみ。焼き上がった腸詰の上にパラパラと振ると、塩が脂に溶けてじゅわりと音を立てた。
俺も負けじと、持参した森胡椒を石で叩き潰し、燻製肉の表面に擦り込む。鉄板の上で胡椒が弾けると、鼻の奥を刺す野性的な香りが煙に乗って広がった。
腸詰は皮がパリッと裂けるまで転がし、中の肉汁を閉じ込めたまま焼き上げる。燻製肉は外側だけをカリカリに焦がし、中はしっとりと赤みを残す。二人の手が止まることはなかった。
木の皿に盛られた腸詰にかぶりついた兵士が、目を見開いた。パリッと弾ける皮の中から、熱い肉汁が口の中に溢れ出す。塩の旨味と脂の甘さが舌の上で混ざり合い、飢えた体の隅々にまで染み渡っていく。
兵士たちは無言で頬張り続けた。泣いている者もいた。食うことに必死で、涙を拭う暇もない。
その裏では、ヴァルターが城中の鍋を集め、細かく刻んだ干し肉と脂を粥に溶かしていた。焼肉は前線の兵に、粥は城壁全体に回す。
翌朝、城壁の外で角笛が鳴り響いた。
ザイデル軍の総攻撃だ。
だが、昨夜の肉で、兵士たちは失いかけていた力を思い出していた。
火球を盾で受けても、膝をつかない。矢の雨に怯え、足を止める者も少ない。魔獣肉で鍛えられてきた身体に、脂と塩と熱が再び火を入れたのだ。
城壁の上から、レオンの叫び声が響く。
「押し返せ! まだ戦える!」
だが、数が違った。
ザイデル軍は三方から波状攻撃を仕掛け、一つの門を押し返しても別の門が危うくなる。辺境伯軍は精強だったが、包囲された側の兵力差はいかんともしがたい。
城壁の一角が崩れかけた時、辺境伯が剣を抜いた。
「全軍、第三門に集結せよ! 儂自ら出る!」
俺は城壁の上の喧騒を聞きながら、中庭に立ち尽くしていた。
剣は振れない。弓も引けない。魔法など論外だ。
俺にできることは、ひとつしかない。
俺は残っている薪を全部かき集め、鉄板と網の下に叩き込んだ。火力が一気に跳ね上がり、鉄板の表面が白く光り始める。
ユーリが運んできた樽を開け、残りの干し肉と腸詰をすべて鉄板の上にぶちまけた。
ジュウウウウ、と凄まじい音が鳴り、白い煙が中庭を覆った。
「全部焼く。全部だ。出し惜しみはしねえ」
煙の柱は城壁を越え、空高く立ち上った。
その時、ガルドが山脈へ向けて、長く、長く吠えた。あの夜、村はずれで山に向かって吠えていたのと、同じ遠吠えだった。
肉と脂が焼ける匂いが、戦場全体を覆い尽くすように広がっていく。
その時だった。
東の空に、影が見えた。
最初は鳥だと思った。だが鳥は、あんな大きさにはならない。翼を広げた影が太陽を遮り、地面に巨大な影が走る。
城壁の上で、兵士が絶叫した。
「竜だ! 東から竜が来るぞ!!」
戦場の全員が空を見上げた。ザイデル軍も辺境伯軍も、剣を握ったまま凍りついている。
辺境伯の顔から血の気が引いた。
「……竜だと。よりによってこの時に……ここまでか」
敵軍と竜に同時に襲われれば、もう打つ手がない。辺境伯は剣を握り直し、最期の覚悟を決めかけた。
だが竜は、戦場には降りなかった。
城壁を越え、城の内側へと翼を翻す。鈍い鋼色の鱗が日の光を弾き、巨大な体が中庭めがけて降下してくる。
石畳が砕け、砂埃が舞い上がる。兵士たちが悲鳴を上げて逃げ散る中、竜は煙の立ち込める鉄板の前に降り立った。
「ワウッ!」
ガルドが鉄板の脇から飛び出し、竜の足元に駆け寄った。巨大な竜を前にして怯えるどころか、嬉しそうに尻尾をぱたぱたと振っている。
竜がゆっくりと首を下げ、ガルドの額に自分の額を押し当てた。
竜の眉間に、見覚えのある青い紋様があった。ガルドの額の、あの十字と同じ形だ。
俺は尻餅をついたまま、動けなかった。目の前で、家一軒ほどもある頭が、うちの狼と額を合わせている。……ああ、そうか。お前が夜ごと山に吠えてた相手は、こいつか。
「……お前の友達か?」
俺は思わず吹き出し、土を払って立ち上がった。
竜の巨大な鼻孔が開き、鉄板の上の肉の匂いを深く吸い込んでいる。金色の瞳が、俺と焼けた肉を交互に見た。
「腹、減ってんのか。ユーリ、樽をもう一つ! でかい塊だ!」
人の頭ほどもある干し肉の塊を鉄板に載せる。ジュウッと盛大な音が鳴る。表面にしっかり焼き目がついたところで、鉄板ごと竜の前に差し出した。
竜は一拍、匂いを嗅いだ。
次の瞬間、鉄板ごと肉を咥え上げ、ゴクリと飲み込む。
「おい! 鉄板まで食うな!」
俺が慌てて声を上げるが、時すでに遅し。
直後、竜の金色の瞳がまん丸に見開かれた。信じられないほど美味いものを食ったという顔で俺を凝視し、ズシンと前足を鳴らして『もっと寄越せ』と鼻先を突き出してくる。
「待て待て、今焼いてやるから……」
俺が網の上に新しい肉を並べかけた時だった。
城壁の外から、轟音と怒号が響き渡った。ザイデル軍だ。竜の飛来にも怯まず、むしろ絶好の機と見て総攻撃を強めてきたのだ。
ドォン、と城壁に何かがぶつかる地鳴りが響き、中庭が大きく揺れる。
「ちぃっ……!」
俺は思わず外の様子を気にし、火加減の調整から目を離してしまった。手元が狂い、網の上の肉からポタポタと脂が落ちて無駄な炎が上がる。
竜が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
肉を焼く男が集中できていない。その原因が城の外の騒音にあると察したらしい。
「グルルゥ……」
竜は巨大な翼を広げると、砂埃を巻き上げて上空へと飛び立った。
そのまま城壁を越え、怒号を上げていたザイデル軍の上空を旋回する。そして、空気を震わせるほどの圧倒的な咆哮を戦場全体に轟かせた。
その一鳴きで、空気が変わった。
城壁の外から聞こえていた攻撃の音がピタリと止む。ザイデル軍は総崩れになった。だが、本陣までは崩れていない。武器を放り出し、我先にと逃げ散ったのは城壁に取り付いていた前線部隊だけだ。それでも、今この瞬間、城壁をよじ登る敵兵は一人もいなくなった。
ものの数分で外が一時的に静まり返ると、竜は再び中庭に舞い戻ってきた。
ズシンと着地した竜は、長い首を俺の目の前まで下ろし、『邪魔者は消したぞ。早く肉を焼け』とでも言いたげに、真っ直ぐに俺を見つめた。
レオンが城壁から駆け下りてきて、呆然と呟いた。
「……前線の敵が、消えた……?」
俺は苦笑いしながら、網の上の肉をひっくり返した。
「おい、食い終わってないやつは座ってろ。竜だろうが何だろうが、腹が膨れるまでは俺の客だ。ほら、どんどん焼くぞ!」
兵士たちの間から、小さな笑いが漏れた。
それは何日かぶりの、笑い声だった。
* * *
ザイデル軍の後方、丘の上。
戦況を無言で記録する監察役オズヴァルトは、竜の飛来に全軍が恐慌する中、彼だけが単眼鏡を下ろさなかった。
「……竜は、城を襲っていない。肉の煙に、降りた」
彼は冷静に手帳へ書き付けた。




