【第61話】村の底力
夜の帳が完全に下りた頃、森の木々がざわめき始めた。
風の音ではない。甲冑の擦れる音と、多数の足音が闇の中から這い寄ってくる音だ。
「……来たな。昼間の残党どもだ」
防壁の隙間から外を覗き込んでいたユーリが、弓に矢を番えながら低く囁く。
昼間、レオン隊の圧倒的な力に恐れをなして潰走した傭兵団。その中でも比較的統率の取れていた一団――おそらくザイデル派の下級貴族に率いられた私兵たちだろう――が、再び村に牙を剥いてきたのだ。
「フン。二十騎の騎士どもが村から出て行くのは、しっかりと見届けたぞ。あの化け物どもさえいなければ、ここはただの開拓村だ!」
闇の中から、酒に焼けたような野卑な笑い声が響いた。
「聞け、農民ども! 貴様らの村は叛逆の拠点と見なす! 今すぐ門を開けて投降すれば、命だけは助けてやる! 逆らえば村ごと焼き尽くすぞ!」
松明の明かりが次々と灯り、百近い兵士たちが防壁を取り囲む。
彼らの言う通り、この村にもう正規の騎士は一人もいない。武器を持った農民と、職人たちだけだ。
だが、村の広場は奇妙なほど静まり返っていた。
恐怖による沈黙ではない。誰もが自分の役割を理解し、その時を待っているのだ。
「ユーリ、腹の具合はどうだ」
俺は防壁の裏に組まれた足場の下で、七輪の炭火を団扇で扇ぎながら声をかけた。
網の上では、分厚く切った魔獣の腸詰が、パチパチと脂を跳ねさせながら香ばしい匂いを漂わせている。端肉を無駄にせず、綺麗に処理した腸に塩と香草で詰め込んだ保存食。これなら夜間警備でも手軽に食える。
「テッペイ、少し焼きすぎだ。肉汁がもったいない」
「馬鹿野郎、夜はこれくらいカリッと焼いた方が目が覚めるんだよ。ほら、食え」
焼きたての腸詰を串に刺し、足場の上のユーリたちに渡す。
若い衆はハフハフと熱い肉を頬張りながら、外の敵に向かって弓を構え直した。
「美味い……! 腹の底から力が湧いてきやがる!」
「腹が減ってちゃ夜目は利かねえからな。しっかり食って、落ち着いて狙え。一歩でも壁に近づく奴がいたら射抜け」
「応っ!」
若い衆の返事には、微塵の恐れもなかった。
この三ヶ月間、俺の肉を食って体を鍛え上げ、レオンたち親衛隊の魔獣狩りに同行して弓や槍の訓練を受けてきた。フリッツたちが補強した壁を守り、クラウスの作った道具を使いこなす彼らは、俺にはもう、ただの農民には見えなかった。
「おい! なんだあの肉の焼ける匂いは! 奴ら、こんな状況で飯を食ってやがるのか!?」
壁の外から、敵の困惑する声が聞こえる。
「舐めやがって! 弓隊、火矢を放て! 壁を燃やしてしまえ!」
ヒュン、という風切り音と共に、数十本の火矢が夜空を弧を描いて飛んでくる。
だが、そのほとんどは壁に刺さる前に、足場から突き出されたクラウス特製の鉄張りの大盾にガキンと弾かれた。
「無駄だ無駄だ! その盾は、昼間の奴らより厚く打ってあるんだよ!」
クラウスが木槌を片手に笑う。
壁に突き刺さった数本の火矢も燃え広がることはない。昼間の戦闘の後、フリッツたちが壁の表面に川の泥を厚く塗り固めて防火対策を施していたからだ。くすぶる火種も、壁の裏に控えていた村の男たちが、長い棒の先に括り付けた濡れ布袋で素早く叩き消していく。
「くそっ! ならば門を破れ! 破城槌を持ってこい!」
業を煮やした指揮官が叫ぶ。
数人の兵士が丸太を抱え、正面の門へ突撃しようと駆け出した。
――その直後だった。
「ギャアアアアッ!?」
突如、闇の中から鼓膜を破るような悲鳴が上がった。
突撃しようとしていた兵士の一人が、宙に浮き上がっていた。いや、違う。巨大な影に「咥え上げられて」いたのだ。
「ガウッ……!」
月明かりに照らされ、銀色の毛並みが妖しく輝く。
森の主、銀狼ガルドだ。
「ば、バケモノ……! 狼の魔獣だ! なんでこんな所に……!」
ガルドは咥えていた兵士を放り投げると、低く地響きのような唸り声を上げた。
その圧倒的なプレッシャーの前に、百人の兵士たちが文字通り足がすくんで動けなくなる。
「ひぃっ……! さ、下がれ! 距離を取って槍で突け!」
パニックに陥った兵士たちが後ずさりする。
だが、そこはすでに『狩り場』の中だ。
「ギャッ!」
「足が……! なんだこの鉄の顎は!」
ガルドから逃げようと後退した兵士たちが、次々とクラウスが仕掛けておいた『足止め用の鉄罠』に噛み付かれて転倒する。闇夜の乱戦において、足元に仕掛けられた凶悪な罠ほど恐ろしいものはない。
「今だ! 撃て!」
ユーリの号令と共に、足場から若い衆が一斉に矢を放った。
暗闇の中でも、罠にかかって身動きが取れない敵は格好の的だ。矢は次々と敵の足を射抜き、戦闘力を奪っていく。
だが、中には罠を避けて防壁の門に取り付こうとする小柄な兵士もいた。
「させるかぁっ!」
ヘルマンとフリッツが、補強用の丸太を突き出して敵の顔面を強打し、堀の底へ突き落とす。若い衆の一人が手が震えて矢を外すが、ユーリが「焦るな、次を引け!」と肩を叩いて落ち着かせた。
ガルドも無敵ではない。闇雲に振り回された敵の槍がガルドの脇腹をかすめ、俺は一瞬ヒヤリとした。だが、銀狼は意に介さず、牙を剥いて次の獲物を地面に叩き伏せた。
「だ、ダメだ! 陣形が組めねえ!」
「化け狼が来るぞ! 逃げろ、逃げろォッ!」
もはや指揮など成立しなかった。
騎士が不在の農村だと舐めてかかっていた敵は、魔獣の恐怖と周到な罠、そして微塵も動じない村人たちの連携の前に、完全に心を折られたのだ。
「撤退だ! 武器を捨てて逃げろォ!」
百近かった兵士たちは、武器や松明を放り出し、我先にと闇の中へ逃げ去っていく。
ガルドは深追いはせず、ただ彼らの背中を見送るように低く吠えた。
あとに残されたのは、罠にかかって動けない十数人の負傷兵たちと、彼らを率いていた指揮官格の下級貴族だけだ。
「降伏する! 殺さないでくれ!」
「命までは取らねえ。だが、全員きっちり縛り上げて、朝になったら知ってることを全部吐いてもらうぞ」
俺がそう告げると、青ざめた下級貴族は絶望に顔を歪めた。だが、殺さずに手当てをしてやるのがルーンハルト流だ。彼らからは、西の城下町の状況も聞き出せるはずだ。
「……終わったか」
俺は七輪の火を消し、静かに息を吐いた。
広場からは、歓声も上がらない。ただ、若い衆たちが互いの肩を叩き合い、静かに勝利を噛み締めている。
自分たちの村を守るために動くことが、少しずつ彼ら自身の当たり前になりつつあった。
東の空が、白み始めている。
長かった夜が明けようとしていた。
「おい、テッペイ」
「どうした、ユーリ。まだ食い足りねえのか」
「いや……レオン隊長たちは、今頃どうしてるかなって思ってよ」
ユーリが弓を下ろし、西の空を見つめた。
昨夜の禍々しい煙はすでに見えないが、あの彼方では、今も主君を守るための絶望的な戦いが続いているはずだ。
「さあな。だが、あいつらは俺の肉を食って走ってる。そう簡単にくたばるようなヤワな連中じゃないさ」
俺はエプロンを外し、西の空に向かって呟いた。
「うちは守り切ったぞ。あとは……お前ら次第だ、レオン」
朝焼けの光が、西へ向かって伸びる街道を静かに照らし出していた。




