【第60話】血の布と決断
完結まで残りわずかですが、最後までお付き合いください!
西の空から飛来した一羽の鷹が、ふらつくように高度を下げ、レオンの差し出した腕に舞い降りた。
その羽のあちこちには痛々しい傷があり、足に巻き付けられた通信用の小さな布は、べっとりと黒い血に染まっていた。
「……軍部の通信鷹だ。一体、西で何が起きている」
レオンは震える手で血塗れの布を解き、広げた。
そこに書かれていた短い暗号文を読み上げた瞬間、彼の顔からスッと血の気が引いた。
『西の領境の砦、陥落。砦内に内通者あり。本隊はファルケンシュタイン城へ後退し、籠城す。援軍を乞う』
その言葉に、広場にいた全員が息を呑んだ。
無敵と謳われた辺境伯軍が、西の国境線を突破され、城まで押し込まれている。西の地平線を覆うどす黒い煙は、陥落した最前線の砦が燃え落ちる煙だったのだ。
「馬鹿な……いくらザイデル公の軍勢とはいえ、我が軍の精鋭が守る砦をたった数日で落とせるはずが……」
副官らしき若い騎士が、信じられないというように頭を抱える。
だが、事実は一つだ。主君である辺境伯は今、城に追い詰められ、生死の境を彷徨っている。
「隊長……! 我らもすぐさま城へ向かいましょう! 本隊と合流しなければ!」
「落ち着け! ここからファルケンシュタイン城まで、馬車で数日かかる距離だぞ!」
血走った目で叫ぶ騎士たちを、レオンが一喝した。
「馬車なら荷を積んで街道を大きく回るが、騎兵だけなら森沿いの旧道を突っ切れる。だが、それでも不眠不休で駆けて、城に着くのは明日の夜になる。その間に城が落ちていれば、我々は平原で包囲されて終わる」
レオンは拳を固く握りしめた。その手から、じわりと血が滲む。
「それに、我々が今受けている命令は『特区ルーンハルト村の防衛』だ。我々がここを離れた隙に、先ほどの傭兵団の残党が戻ってくれば、この村は終わる。辺境の未来そのものが焼き払われるんだぞ!」
「しかし、辺境伯様が討たれれば、どのみち辺境全体が終わります!」
騎士たちが悲痛な声を上げる。
特区を守るか、主君の元へ駆けつけるか。しかも、駆けつけたところで間に合う保証はどこにもない。絶望的な距離と時間の壁が、彼らの心を圧し潰そうとしていた。
「おい、レオン」
俺は大鍋の火を落とし、エプロンについた獣の血を払いながら前に出た。
「お前らは城に行け」
「テッペイ……! だが、お前たちを置いていくわけには……」
「勘違いするな。お前らが抜けたからって、簡単にやられるようなひ弱な村を作った覚えはない」
俺は親指で、村の奥を指差した。
そこには、フリッツとヘルマンがすでに壊れた柵の修繕を始めている姿があった。クラウスは予備の罠を台車に積み込み、ユーリや若い衆は弓の弦を張り直している。ガルドは広場の中央に陣取り、鼻をひくつかせて森の匂いを嗅いでいた。
誰も、諦めていない。
戦いはまだ終わっていないと、全員が理解している。
「村の守りは残った俺たちとガルドでなんとかする。それに、辺境伯様には大きな恩がある。俺の商売を認めて、この村を特区にしてくれた恩人だ。その人が死にかけてるって時に、自分たちだけ安全な壁の中に引きこもってるような真似はできねえ」
俺の言葉に、ベルント村長がゆっくりと頷いた。
「テッペイの言う通りじゃ。レオン殿、辺境伯様をお救いくだされ。我らの村は、我ら自身で守り抜いてみせますわい」
「……お前たち」
レオンの目が、微かに潤んでいた。
彼は深く、一度だけ頭を下げた。
「すまない。この恩は、必ず生きて返す」
「ああ。だがその前に、少し待ってろ」
俺は厨房として使っているテントの奥に走り、冷暗所として掘った穴から『とっておき』の肉を取り出した。
三日前にガルドが仕留めてきた、巨大な魔猪の背肉だ。これを特製のタレに漬け込み、じっくりと燻製にしておいた。
「ヒルダ! ニーナ! パンを全部持ってこい! 間に肉を挟むぞ!」
俺の指示で、女たちが素早く動く。
分厚く切った燻製肉を、黒パンに豪快に挟み込む。塩気とスパイスを強めに効かせた、究極のエネルギー食だ。出来上がった分から次々と麻袋に詰め込んでいく。
「これを持っていけ。全部で八十食分はある。馬に積める限界の量だ」
ずっしりと重い麻袋を、レオンの馬の鞍に縛り付けた。二十人が、走りながら四度は口にできる量だ。
「不眠不休で丸一日馬を走らせたら、城に着いた頃にはお前らの方が疲労でぶっ倒れてるだろうが。だから、走りながらこいつを食え。そうすれば、到着と同時に全力で剣が振れる」
ただのパンではない。魔獣肉がもたらす異常な回復力と筋力強化を、彼らはこの三ヶ月で誰よりも知っている。
「テッペイ……お前という男は、どこまで……」
「泣き言は帰ってきてから聞く。行け!」
俺が馬の尻を叩くと、いななきと共にレオンの馬が駆け出した。
それに続き、十九名の騎士たちが一斉に西の街道へ向かって疾走していく。
土埃が収まる頃には、村に残されたのは俺たち村人と、ガルドだけになっていた。
「さあて。一番強え連中がいなくなっちまったな」
俺は村の広場を見渡した。圧倒的な索敵能力を持つガルド。修繕された防壁とクラウスの罠。そして何より、誰一人として逃げ出そうとしない、腹を括った村人たちがいる。
「……うちの村は、まだやれる」
俺は包丁を握り直し、迫り来る夜の闇を睨んだ。
城での籠城戦と、最果ての村での総力防衛戦。辺境の存亡を賭けた本当の戦いが、今ここから始まろうとしていた。




