【第58話】開戦
城の厨房へ食材の卸しに来ていた俺は、城内の空気が唐突に張り詰めるのを感じた。
武装した騎士たちが血相を変えて廊下を走り回り、メイドたちが青ざめた顔で壁際に身を寄せている。
「テッペイ! ちょうどよかった、辺境伯様がお呼びだ!」
すれ違ったファルク卿に腕を引かれ、俺はそのまま執務室へと連行された。
重厚な扉を開けると、そこには鎧姿の将軍たちに囲まれ、厳しい顔で地図を見下ろすバイエル辺境伯の姿があった。
「――ザイデル公爵の軍勢が、我が領境に向けて進軍を開始した」
辺境伯のその一言に、俺は息を呑んだ。
ザイデル公といえば、王都で大きな権力を持つ大貴族だという話は聞いている。
「名目は『領境における魔獣侵入の防衛』だと嘯いているそうだが、連中の数は数千。私兵だけでなく、フェルゲン商会の息がかかった傭兵団も混ざっている。あれは防衛の規模ではない。明確な侵略だ」
「国王陛下からの勅命は出ているのですか?」
「出ておらん。あ奴は王命を無視して強行したのだ。我が家を力でねじ伏せ、既成事実を作るつもりだろう」
ファルク卿が悔しげに拳を握りしめる。
将軍の一人が、地図を指差して声を張り上げた。
「辺境伯様! こちらも全軍を出撃させ、領境の向こう側で迎撃すべきです! 奴らに辺境の恐ろしさを叩き込んでやりましょう!」
血の気の多い将軍の言葉に、他の者たちも同調する。だが、辺境伯は静かに首を振った。
「ならん。こちらから領境を越えて打って出れば、それこそが『謀反の証拠』として王都に報告される。ザイデルの狙いはそこだ」
「では、どうなされるおつもりで!?」
「専守防衛だ。砦の防壁を盾にし、一歩も引かずに耐え抜け。こちらから手は出すな。必ず王が真実を知り、裁定を下す時が来る。我らはそれまで、ただ誇り高く守り切って事実を王に届けるのだ」
将軍たちは不満げながらも、その言葉に深く首を垂れた。
王家への忠誠と、領民を守るという大義。挑発に乗らず、最も困難な「耐える戦い」を選ぶ辺境伯の器の大きさに、俺は密かに感心していた。
「辺境伯様」
俺は一歩前に出た。
「俺は剣は振れません。ですが、飯を炊くことならできます。辺境伯様の軍に、うちの村から『肉』を供給させてください。塩漬けや干し肉の備蓄は十分にあります」
辺境伯は少し驚いたように目を見張ったが、やがて力強く頷いた。
「レオンたち親衛隊の報告は聞いている。そなたの作る肉が、どれほど兵の身体を強くし、魔法への耐性すらも引き上げるかをな。……頼む、テッペイ。腹が減っては、耐え抜く戦はできん」
* * *
俺はすぐさま早馬を借り、ルーンハルト村へと急ぎ戻った。
村はすでに、ただならぬ空気に包まれていた。城からの伝令が先に到着していたのだろう。
「テッペイ、帰ってきた!」
見張り台からミーナの声が響く。
広場に駆け込むと、ベルント村長を中心に、村の若い衆が慌ただしく動いていた。
彼らは武器となる農具や狩猟用の槍を点検し、備蓄用の木箱を荷馬車に積み込んでいる。
「ベルント! 状況は聞いてるか!」
「おお、テッペイか。領境で戦が始まるそうじゃな。じゃが心配はいらん。あの防壁と見張り台が、ここで役に立つ時が来たようじゃ」
村長が指差した先には、丸太を組み上げて作られた頑丈な防壁が村をぐるりと囲んでいた。もともとは市場で稼いだ利益で建てたものだが、先日、辺境伯の裁定により村へ順次返還され始めた、フェルゲン商会の息のかかったあの徴税官からの不正徴税分を惜しみなく注ぎ込み、さらに堅牢な防衛設備へと増強してある。
さらに、広場の隅には、大量の塩漬け肉と干し肉の樽が整然と積まれていた。
「兵站の準備も進めてるぞ。城の兵たちに、うちの美味い肉をたっぷり食わせてやるんじゃ」
村人たちの顔に、悲壮感はなかった。むしろ、自分たちの力で何かを守ろうとする強い意志が感じられた。
「テッペイ殿!」
そこへ、完全武装したレオン隊の面々が駆け寄ってきた。
「お前ら、城に戻らなくていいのか? 本隊が領境で防衛戦を張るんだろ」
「我々は辺境伯様より、この特区ルーンハルト村の防衛を命じられております。それに……」
レオンはチラリと、広場に積まれた干し肉の樽を見た。
「ここで戦えば、一番美味い肉が食えますからな」
「……お前ら、本当に貴族か?」
俺が呆れ半分で笑った時だった。
見張り台の上から、血相を変えた若い衆が叫んだ。
「報告!! 砦の方角から、斥候が来ます!!」
馬を乗り潰すような勢いで村に飛び込んできたのは、城からの伝令だった。
彼は落馬しそうになりながら、俺とレオンの前に転がり込んだ。
「はぁっ、はぁっ……! ご報告、します……! ザイデル公の軍勢のうち、本隊は領境の砦へ向かいましたが……」
「別働隊がいるのか!?」
「はい……! 数百規模の傭兵団からなる別働隊が、本隊から離脱し、大きく迂回してこちらへ向かっています!」
伝令の兵士は、絶望的な顔で村を見渡した。
「奴らの狙いは……辺境伯様が禁忌の研究を進めていると疑われている、この村です……!」
広場が静まり返る。
俺はゆっくりと、エプロンの紐を強く締め直した。




