【第57話】讒言
王都の中心部にそびえる、豪奢な尖塔を持つザイデル公爵の館。
分厚い絨毯が敷き詰められた薄暗い執務室で、三人の男が重苦しい空気を纏いながら対峙していた。
「――つまり、バイエル辺境伯は、王家に対する明らかな『謀反』を企てている、と。そういうことだな?」
上座の豪奢な椅子に深く腰掛けた初老の男――ザイデル公爵が、低く唸るような声で言った。
彼の前で平伏しているのは、フェルゲン商会主ディートリヒと、泥まみれの服を着替えたばかりの元徴税官、ブルクハルトである。
「はいっ! 御意のままにございます、公爵閣下!」
ブルクハルトは床に額を擦りつけながら、唾を飛ばす勢いで答えた。
「あの忌々しいルーンハルト村……辺境伯の庇護を受けたあの村では、不可解なほど異常に肉の消費が増え、辺境伯直属の精鋭兵までが常駐しているとの情報がございます。彼らが何を食べ、何を鍛えているのか……考えるまでもありません! 辺境伯の資金援助で堅固な防壁を築き、平民どもは独自の武器を取って軍事訓練を行っているのです! さらには、銀狼型の高位魔獣を村内で使役している疑いすら上がっております!」
ブルクハルトが差し出した羊皮紙の束――査定の際に捏造と誇張を織り交ぜて作り上げた報告書――を、ザイデル公は忌々しげに見つめた。
ザイデル公にとって、バイエル辺境伯は積年の政敵である。武骨で実直な辺境伯が王からの信頼を一身に集めていることは、大貴族である彼にとって耐え難い屈辱だった。
だが、彼が抱いていたのは単なる嫉妬ではない。本能的な『恐怖』だ。
もし本当に、魔獣の肉を食らった平民たちが力をつけ、魔法に匹敵するような武力を手に入れ始めたらどうなるか。貴族が貴族であるゆえん――血筋と魔法による圧倒的な優位性が、根底から覆されてしまう。
この讒言は、彼にとって「飛びつきたかった」劇薬だった。
「防壁の建設、平民の武装、魔獣の使役……。これだけの証拠が揃えば、奴の言い逃れは不可能だ。直ちに兵を挙げ、あの穢れた村ごと叩き潰さねばならん」
「お待ちを。公爵殿」
ザイデル公が立ち上がろうとしたその時、部屋の隅の長椅子から、静かな声が響いた。
そこに座っていたのは、晩餐会でただ一人、テッペイの肉を食べて無言を貫いていた男――オズヴァルト侯爵だった。
オズヴァルト侯は細い銀縁の眼鏡の奥で、氷のように冷たい瞳を光らせ、ブルクハルトの報告書をペラペラと捲った。
「この報告書には、事実と解釈が混ざっておりますな」
「なんだと?」
「『防壁が築かれた』というのは事実でしょう。しかし、それが『謀反の準備である』というのは、この徴税官の推測と解釈に過ぎません。銀狼型の魔獣を使役しているというのも、単に狩りのために犬を飼い慣らしているのを見間違えただけかもしれん。……検証が要ります」
オズヴァルトの冷静すぎる指摘に、ブルクハルトの顔が引き攣り、ディートリヒが冷や汗を流す。
だが、ザイデル公は鼻で笑った。
「オズヴァルト殿は相変わらず慎重だな。だが、悠長に検証している間に、辺境の蛮族どもが王都へ牙を剥いたらどうする? 私は、王都の、そして我が領地の安全を第一に考えるのみだ」
* * *
その日の午後、王宮の謁見の間。
玉座に座る国王の表情は、怒りと呆れが入り混じったように険しかった。
「却下だ。認めぬ」
王の短い言葉が、石造りの大広間に響き渡る。
ザイデル公が提出した『辺境伯討伐の許可』を求める上奏文は、一読されただけで床に投げ捨てられた。
「陛下! バイエル辺境伯は明確な反逆の意思を――」
「証拠が薄すぎる。たかが一小役人が書いた出処の怪しい報告書一枚で、余の最も信頼する男を討てと言うのか? バイエルは、この国で最も重い領地を、最も長く守り抜いてきた男だ。そのような忠臣を疑う理由が、余にはない」
「……晩餐会の一件で、陛下はあの男に幻惑されておいでだ! あの得体の知れない肉が、陛下の思考を狂わせているのです!」
「ザイデル。それ以上言えば、不敬に問うぞ」
王の鋭い眼光に射抜かれ、ザイデル公は奥歯を強く噛み締めた。
だが、彼は引き下がらなかった。怒りに震える肩を怒らせ、玉座を見据えて言い放った。
「……では、王命なきまま動くまで。我が領地は辺境伯領と隣接しております。隣国の領主が武装した平民と魔獣を蓄えているとなれば、領主として領境の『自衛』のために動くのは当然の権利。私兵と同調する貴族の兵を集め、ただちに領境の安全を確保いたします」
「貴様……それは事実上の宣戦布告だぞ!」
「自衛、でございます」
ザイデル公は深く一礼すると、王の制止を無視して謁見の間を後にした。
王は玉座の肘掛けを強く叩き、深く溜息をついた。
「愚かな……。権力闘争の道具として、無辜の領民を巻き込むか……」
「陛下」
静寂に包まれた広間に、一人の男が歩み出た。
オズヴァルト侯爵だった。彼はザイデル公の上奏に同席していたが、ずっと無言を貫いていた。
「オズヴァルトか。……止められなかった余を、笑うか」
「いいえ。ザイデル公の耳には、すでに自らの欲する言葉しか届いておりません」
オズヴァルト侯は静かに片膝をつき、王に向けて深く頭を下げた。
「陛下。私に、王室の『監察役』として、ザイデル公の軍に従軍する許可をいただきたく存じます」
「……お前が、か?」
「はい。誰かが、真実を……ありのままの事実を、その目で見て参らねばなりません。ザイデル公が本当に自衛のために動くのか、それとも捏造された罪で忠臣を討とうとしているのか。そして……」
オズヴァルト侯の脳裏に、あの晩餐会で出された、美しいルビー色をした極上のステーキの断面がよぎる。
「あの料理人がいるという村が、本当に地獄の業火で焼かれるべき場所なのか。このオズヴァルトの目で、見定めて参ります」
* * *
二週間後。
ザイデル公爵は、辺境伯を失脚させる機会を以前から待っていた。領境近くに位置する彼の駐屯地には、密かに集められていたおびただしい数の軍勢が待機していた。
ザイデル公の私兵に加え、フェルゲン商会の資金で雇われた傭兵団、辺境伯の台頭を快く思わない同調貴族たちの軍。その数は数千に膨れ上がり、もはや一領主の「自衛」と呼べる規模を遥かに超えていた。
「全軍、進発せよ!!」
軍馬のいななきと、重装歩兵たちの足音が大地を揺らす。土煙を上げて進み始めた巨大な軍勢の先頭には、ザイデル公爵の軍旗がはためいている。
王命を無視した進軍の言い訳として、表向きの進軍先は「領境の魔獣侵入に備える防衛拠点」と発表されていた。
だが、ザイデル公の机上に広げられた作戦図には、赤い印で別の地名がはっきりと記されている。
――ルーンハルト村。
美味しい肉と笑い声に包まれたあの小さな村に、理不尽な戦火が、猛烈なスピードで迫りつつあった。




