【第56話】特区の三ヶ月
今日から2話更新です。最後までお読みいただけると嬉しいです。
ルーンハルト村が辺境伯直轄の『特区』に指定されてから、早くも三ヶ月が経過していた。
夏が近づき、日差しが強くなり始めたある日の昼下がり。
広場に新しく建てられた木造の店舗――『黒田精肉店』の厨房で、俺は分厚い肉の塊に包丁を入れていた。
「テッペイさん! お客さん、またいっぱい来たよ!」
店先のカウンターから、元気な声が響く。
踏み台に乗って店番の手伝いをしているミーナだ。頭には、ヒルダが縫ってくれたという可愛らしいバンダナを巻いている。
「おう、わかってる。今焼くから、少し待たせておいてくれ」
俺がそう答えるより早く、ドカドカと重いブーツの足音が店に入ってきた。
「テッペイ殿! 今日の分はあるか! 特大の猪豚串を五本、いや十本頼む!」
「隊長、抜け駆けはずるいっすよ! 俺にも同じものを!」
「俺は香草焼きだ! あのピリッとするやつを多めで!」
押し寄せてきたのは、辺境伯親衛隊の精鋭たちだ。
彼らは「村の防衛と肉の効能の検証」という名目で、特区となったルーンハルト村にそのまま駐留している。
だが、その検証任務は、当初の彼らの予想とは全く違う方向へ転がっていた。
彼らは魔法が使える下級貴族の次男や三男だ。城にいた頃は、血抜きもされていない獣臭くて硬いゴムのような肉ばかりを食わされ、肉というものに心底うんざりしていたらしい。
しかし、俺が焼いた肉を食べて以来、彼らの肉に対する概念は完全に崩壊した。
今や彼らは、俺の肉料理の完全な虜だ。厳しい訓練が終わるや否や、こうして店に群がり、猛烈な勢いで肉を平らげていくのだ。
「焦るな。肉は逃げない。……ほら、焼けたぞ」
俺が焼き立ての串を皿に積み上げてカウンターに出すと、レオンたちは歓声を上げて飛びついた。
熱々の肉汁が口の端から滴るのも構わず、獣のような勢いで食らいつく。
「美味い……! なぜ毎日食っているのに、全く飽きないのだ!」
「城の厨房で食わされていたあのゴムの塊は、一体なんだったんだ……」
涙を流さんばかりの勢いで肉を頬張る彼らを、俺は苦笑いしながら眺めた。
「あのう……テッペイ殿」
レオンたちの喧騒から少し離れたところで、部隊の記録係を務める若い兵士が、困惑したような顔で俺に声をかけてきた。手には、彼らの訓練成績を記した羊皮紙が握られている。
「どうした? お前も食うか?」
「い、いえ、そうではなくてですね。……最近、隊長たちの数値がおかしいのです」
記録係の青年は、声を潜めて羊皮紙を広げた。
「これを見てください。この三ヶ月で、隊全員の剣の振りの速度が、平均して三割近く上がっています。重い鎧を着たままの持久走に至っては、以前の倍の距離を走っても息が上がっていません。そして何より……」
「何より?」
「模擬戦で威嚇用の魔法を使った際、至近距離で破裂魔法の余波を受けた兵士がいたのですが……本来なら腕に酷い火傷を負う距離だったのに、赤く腫れただけで済んだんです。衝撃で倒れはしましたが、骨折も内出血もありませんでした。熱と衝撃が、以前より明らかに浅く済んでいる。まるで、魔法の熱や衝撃そのものが、身体の表面で薄められているような……」
記録係の言葉に、俺は包丁を動かす手を止めた。
以前、没落貴族のヴァレリウスが教えてくれた『魔法耐性』の話。魔獣の肉を適切に処理し、その栄養と力を極限まで引き出して食い続けた結果が、明確な数値と現象として表れ始めているのだ。
「……まあ、しっかり飯を食って、よく寝て、きっちり訓練してるからだろ。気にするな」
「そ、そういうものでしょうか……?」
首を傾げる記録係の手に、俺は焼きたての猪豚串を一本握らせた。美味い肉の匂いに、彼の表情がたちまち緩む。
* * *
昼のピークが過ぎた頃。
広場に面した裏口から、巨大な銀狼が顔を出した。ガルドだ。
その背中には、レオン隊の兵士たちが括り付けたであろう、血抜き済みの野牛の肉塊がいくつか積まれていた。
『ウォフッ』
「おう、お疲れさん。今日も大漁だな」
ガルドが誇らしげに鼻を鳴らす。
特区になってから、村の若い衆だけでなく、レオン隊もガルドと一緒に森へ入るようになった。ガルドの圧倒的な索敵能力と、精鋭部隊の戦闘力が合わされば、巨大な魔獣も面白いように狩れる。だが、狩りすぎれば森が痩せる。村人だけでなく、大食漢の兵士たち二十人を養うとなれば、なおさらだ。そのため、レオン隊には獲物の数と縄張りの記録も取らせるようにした。
ガルドにとっても、自分が獲物を見つけるだけで人間たちが勝手に解体し、一番美味しいところを俺が焼いてくれるこのシステムは、すっかりお気に入りになっているようだ。
俺はガルドの背中から肉を下ろし、賄い用の極厚ステーキを一枚、専用の大皿に焼いてやった。
ガルドがそれに食らいついている横で、俺は一通の手紙を開いた。
月に数回、定期便の御者に託されて届けられる封書。差出人は、城の料理長ヴァルターだ。
『テッペイ殿。先日送っていただいた山の香草のおかげで、赤ワインソースの臭み消しが格段に向上しました。感謝いたします。
ところで、低温で肉の熱を保つ手法についてですが、どうしても時間が経つとパサついてしまいます。温度の管理に、何か特別な魔法の道具を使っているのでしょうか?』
俺は手紙を読みながら、ふっと笑った。
晩餐会の一件以来、あの頑固な料理長は完全にプライドを捨て、俺に対して真摯に教えを乞うようになった。
魔法の道具なんてない。指先の感覚と、絶え間ない火加減の調整だけだ。だが、その基本を伝えるだけでも、彼の料理は劇的に変わるはずだ。
「よし、後で返事を書いておくか」
村は活気に満ち、商売も順調。親衛隊との関係も良好だ。
すべてが、理想的な形で回り始めているように見えた。
* * *
だが、その頃。
ルーンハルト村から遠く離れた、領都へ続く薄暗い街道。
ガシャァァンッ!!
凄まじい金属音と共に、一台の堅牢な護送馬車が横転した。
車輪を破壊され、泥土に突っ込んだ馬車の周囲には、黒装束に身を包んだ複数の男たちが立っていた。彼らは商会の紋章も名も残しておらず、現場には近隣の盗賊団が使う矢尻だけがわざとらしく散らばっていた。
護衛を務めていた領都の兵士たちは、すでに全員が物言わぬ骸となっていた。
「ひ、ひぃぃっ……!」
ひっくり返った馬車の檻の中で、鎖に繋がれた男が震え上がっていた。
横領と不正搾取の罪で捕らえられ、領都へ護送される途中だった悪徳徴税官、ブルクハルトだ。
黒装束の男たちの一人が、鉄の檻を乱暴に蹴り開け、ブルクハルトの胸倉を掴んで引きずり出した。
「殺すな! 私は、フェルゲン商会のディートリヒ様と深い繋がりが……!」
「わかっている。そのディートリヒ様の命で、お前を回収しに来たのだ」
「……え?」
ブルクハルトは呆然と男の顔を見上げた。
「ディートリヒ様からの伝言だ。『貴様の横領の尻拭いをしてやる義理はない。だが、貴様が握っているという「辺境伯の不穏な動き」についての報告書。それには価値がある』と。報告書の内容を吐け。使えると分かれば、生かす。役に立たなければ、その場で捨てる」
ブルクハルトの顔に、みるみるうちに血色が戻っていく。
彼が懐に隠し持っていた、あの査定書。そこには、ルーンハルト村に築かれた堅固な防壁と、平民たちが武器を取り訓練しているという「捏造まじりの事実」が記されている。
「は、ははは……! そうだ、あるぞ! 辺境伯は平民に肉を食わせ、私兵として武装化させている! これは明らかな反逆行為だ!」
ブルクハルトは、泥まみれの顔を歪ませて狂ったように笑い始めた。
「見ているがいい、バイエル辺境伯……。そしてあの憎き肉屋の男よ。お前たちのその小賢しい村ごと、地獄の業火で焼き尽くしてやる……!」




