【第54話】開店
いよいよ、物語も終盤です。ここまで読んでいただきありがとうございます。
ぜひ最後までお読みいただけると嬉しいです。
街道の向こうに、見慣れた丘が見えた。
ユーリが荷物を背負い直して、足を速めた。俺も自然と歩幅が大きくなる。三ヶ月以上離れていた。城下町の石畳にも慣れたが、この草と土の匂いが恋しかった。
丘を越えると、畑が広がっていた。出発前より明らかに面積が増えている。ラッケルの葉が風に揺れ、その奥に水路の水が光っている。
「テッペイ! ユーリ!」
見張り台の上から、若い衆が叫んだ。角笛が鳴る。村中に響き渡る、帰還の合図だ。
門のところまで来ると、人が集まり始めていた。
最初に走ってきたのはミーナだった。前よりずっと背が伸びている。足も速い。まっすぐ俺の腰にぶつかってきて、しがみついた。
「テッペイ帰ってきた! ずっと待ってたの!」
「おう。でかくなったな、ミーナ」
頭を撫でた。髪が前より長い。ニーナがその後ろで、目を赤くしながら微笑んでいる。
「テッペイさん!」
鶏小屋の方から、ヒルダがエプロンをはためかせて走ってきた。
「卵、倍になったよ! 毎日余るくらい産んでるんだから!」
「そいつはすごいな。今夜は卵焼きだな」
ヘルマンが門の柱にもたれて立っていた。俺と目が合うと、小さく顎を引いた。それだけだった。それだけで十分だった。
クラウスが走ってきた。汗まみれで、革のエプロンをつけたままだ。
「テッペイさん! 鍛冶場、動いてますよ! フライパンも三枚作りました! あと、頼まれてたやつ……できてます」
「ありがとな。後で見せてくれ」
エルストが水汲みの桶を持ったまま立ち止まっていた。目が合うと、深く頭を下げた。言葉はなかった。この男はそういう男だ。
フリッツが木の削りかすを服につけたまま、腕組みをして立っている。無口な顔に、わずかに口角が上がっていた。こいつが笑うのを見るのは、たぶん初めてだ。
ガルドが森の方から走ってきた。
銀色の毛皮が日光に光る。尻尾が千切れそうなほど振れている。俺の前で急停止して、顔を胸に押しつけてきた。でかい図体で甘えるな。
「よしよし。腹減ってんだろ、お前も」
尻尾の振り方がさらに激しくなった。肉の話だけはわかるやつだ。
広場に着くと、ベルントが立っていた。
杖をついて、背筋を伸ばして。三ヶ月前と同じ場所だ。だが、背筋は以前よりもまっすぐに見えた。
「……帰ったか」
「帰りました」
王都の貴族たちが城を発った後、辺境伯は約束どおり勅許状と直轄令を整えてくれた。
俺は懐から、革の筒を取り出した。辺境伯の封蝋がついた勅許状だ。
「ルーンハルト村を、辺境伯直轄の魔獣対策特区に指定する勅許状です。税は直轄の役人へ直接納付。開墾と防壁は辺境伯府への直接申請。酒と食品の製造販売許可も正式に下りました。それに——村の内部での魔獣肉の加工と配給も、辺境伯様の直轄許可として認められています」
ベルントの手が震えた。
勅許状を受け取り、封を切り、文面を読む。何度も読み返す。そのうち、文字が滲んで見えなくなったのだろう。ベルントは顔を上げた。
六十年、この村を守り続けた男の目に、涙が光っていた。
「……儂は、六十年待った。六十年、いつか来る日を待ち続けた。それがお前の手で届くとはな」
「自分一人の手柄じゃないです。ベルントさんが帳面をつけ続けてくれたから、辺境伯を動かせた」
ベルントは俺の肩を掴んだ。骨ばった手に、思いのほか力がこもっていた。
「よく、やった」
それだけ言って、ベルントは杖を突いて背を向けた。泣き顔を見せたくないのだろう。不器用な男だ。俺と同じで。
勅許状の話は、あっという間に村中に広がった。
「もう徴税官に好き勝手されない」「商売を堂々とやれる」「辺境伯様が守ってくれる」。喜びの声が夕方まで止まなかった。
だが、俺にはもう一つ、やることがあった。
クラウスとフリッツに頼んでおいたものだ。出発前に図面だけ渡しておいた。
「テッペイさん、こっちです」
クラウスが鍛冶場の裏に案内した。布をかけた板が立てかけてある。フリッツが黙って布を取った。
木の板に、鉄の文字が打ちつけてある。
『黒田精肉店』
クラウスが鉄で文字を鋳造し、フリッツが樫の板を削って看板に仕立てた。文字は少し不揃いだ。二人とも日本語の文字を知らない。俺が紙に書いた見本を見ながら、一画ずつ型を起こしたのだろう。
「テッペイさんが書いてくれた文字、難しかったです。曲がってるところとか、はねてるところとか……これで合ってますか?」
「……合ってる。完璧だ」
声が詰まった。
東京の下町で、三代六十年続いた精肉店。じいちゃんが戦後に建てて、親父が継いで、俺が潰した店。あの時、シャッターを下ろしたのは俺一人だった。
その名前が、異世界の看板に刻まれている。
「広場に掛ける。手伝ってくれ」
ユーリとクラウスが脚立を持ってきた。フリッツが柱の位置を決めた。ヘルマンがいつの間にか来ていて、水平器を当てた。
看板を掛けた。
『黒田精肉店』
広場の真ん中に、その四文字が掲げられた。夕日が鉄の文字に当たって、赤く光った。
村人たちが集まってきた。見慣れない文字を見上げて、首をかしげている。
「テッペイ、これ何て読むの?」
ミーナが聞いた。
「クロダセイニクテン。俺の国の言葉で、肉の店って意味だ」
「お肉のお店! じゃあ、お肉買えるの?」
「ああ。村の中だけだ。魔獣肉も普通の獣肉も、ちゃんと処理して売る。明日からな」
ミーナの目が輝いた。ニーナが後ろで笑っている。
ベルントが杖をついて歩いてきた。看板を見上げた。長い間、黙っていた。
「……お前の国の店は、どんな店だったんだ」
「じいちゃんが始めて、親父が継いで、俺で終わった店です」
「終わったのか」
「ええ。でも——」
看板を見上げた。不揃いな鉄の文字が、夕日に染まっている。
「——ここで、もう一回始めます」
ベルントは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
その夜、広場で焚き火を囲んだ。
宴会というほど大げさなものではない。ありあわせの食材で、簡単な料理を作った。ドライホルンの端肉を塩と森胡椒で焼いたもの。ラッケルのポタージュ。それだけだ。
だが、村人たちは笑っていた。
ユーリがガルドに肉の端を投げて、ガルドが空中で受け止めた。ミーナが拍手した。ヘルマンが黙って薪をくべた。エルストがアンネと子供たちを連れて、端の方に座っていた。端だが、同じ焚き火を囲んでいる。
クラウスがフリッツと何か話しながら、木の棒で地面に図面を描いていた。また新しい道具を思いついたらしい。こいつらは放っておくと朝まで図面を描く。
ベルントが焚き火の向こう側で、ニーナが注いだ蜂蜜湯を飲んでいた。
俺は焚き火から少し離れた場所で、一人で座っていた。
空を見上げた。月も星も出ていない。雲が低い。明日は雨かもしれない。
前の世界で、精肉店を閉めた夜も、こんな空だった。シャッターを下ろして、暗い店内で一人で座って、缶ビールを開けた。六十年の歴史が終わった夜。誰も来なかった。
今は違う。
焚き火の向こうで、大勢が笑っている。知り合いばかりだ。名前を呼べば振り向く。飯を作れば食ってくれる。看板を見て、明日を楽しみにしてくれる。
前世の俺に教えてやりたい。一人で抱え込むな。頼れ。頼んだら、こういう連中が手を貸してくれる。
ガルドが横に来て、ごろんと寝転がった。でかい体が暖かい。尻尾がぱたぱた動いている。
「……明日から忙しくなるぞ」
ガルドの耳がぴくりと動いた。
「肉、たくさん焼くからな」
尻尾の速度が倍になった。
黒田精肉店、異世界支店。明日、開店だ。




