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【第53話】鷹の研究室

辺境伯は執務デスクの裏にある本棚に歩み寄り、分厚い一冊の本を引き抜いた。

ゴゴゴゴ……と鈍い音を立てて本棚がスライドし、その奥に暗い隠し通路が現れた。


辺境伯が燭台を手に取り、隠し通路へと足を踏み入れる。俺は小さく口笛を吹き、その後を追った。


螺旋階段をどこまでも下っていく。城の地下深く、おそらく大厨房よりもさらに下の階層だろう。

やがて、分厚い鉄の扉の前に出た。辺境伯が鍵束から古びた鍵を取り出し、扉を開ける。


そこは、奇妙な部屋だった。


部屋の壁一面には、様々な魔獣の解剖図や、内臓の構造を記した精緻なスケッチが張り出されている。

棚には刺激臭のする保存液に沈められた臓器の瓶が並び、中央の机には、おびただしい数の研究記録が無造作に積まれていた。


「ここは……?」

「我がバイエル家が代々、極秘裏に管理してきた『研究室』だ」


辺境伯は机の上の記録をパラパラと捲りながら、俺の顔をちらりと窺った。何をどこまで話すべきか、測っているようだった。やがて、覚悟を決めたように口を開く。


「テッペイ。そなたは……肉を食うことの本当の意味を、どこまで知っている」


唐突な問いだった。俺は黙って辺境伯の次の言葉を待った。


「我々貴族は肉を食う。晩餐の席で、狩りの後の宴で。それ自体は咎められない。だが、そなたも知っているだろう。平民が肉を口にすることは、『穢れ』として固く禁じられている」


辺境伯は壁に貼られた解剖図を指でなぞりながら続けた。


「二百年前、当時の貴族たちが教会を通じてそう定めた。『魔獣の肉を食らう平民は魔に堕ちる』と。以来、肉は貴族だけの特権となった。……だがな、テッペイ。これは単なる食の格差の話ではない」


辺境伯の声が、一段低くなった。


「我がバイエル家は、この辺境を守る立場上、考えざるを得なかった。我々の先祖が平民から肉を取り上げたのは、平民が力をつけ、貴族に逆らうことを恐れたからだ。ならば裏を返せば――肉には、人の身体を変えるほどの力が本当にあるのではないか。あるならば、辺境の防衛に使えるはずだ、と。こうして我が家は数世代にわたり、一つの研究を極秘に続けてきた。――すなわち、『魔獣の肉が人体にもたらす強化作用』についてだ」


「……やはり、そうでしたか。そういえば昔、街道で騎士たちが魔物の死骸を運んでいくのを見ました」


「それも我が家の回収班だ。二百年、ああして集めてきた。……だがな、我々貴族はあくまで肉を食うこと自体に慣れ、抵抗がないというだけ。肉の力を極限まで引き出す『調理の知識』が致命的に欠けていたのだ」


俺の静かな返答に、辺境伯の眉がぴくりと動いた。


「そなた……知っていたのか?」

「村で暮らすうちに、いくつか気づくことがございました。肉を食った者と食わない者で、体力の差が目に見えて違う。それと、没落したある貴族から、少しだけ」


俺は、ヴァレリウスの名は出さなかった。だが辺境伯の目が鋭く光る。


「……なるほど。平民の肉屋がここまで見抜いていたか」


辺境伯は一つ息を吐き、続けた。


「研究の結果は、予想以上だった。肉食は『穢れ』などではない。身体を強くし、魔法への耐性を育てる力だ。我々の先祖が恐れたのは正しかった。だが、一食二食で劇的に変わるわけではない。数ヶ月、毎日欠かさず食い続けて、ようやく筋力や持久力が目に見えて変わり始める。魔法耐性はさらに長い。我々貴族が月に数度、少量を嗜む程度では、そこまでの効果は出ない。もし兵士たちに日常的に、大量に肉を食わせることができれば……話は根本から変わる。そして、そこに我が家の問題があった」


「問題は、兵士に肉を食わせる方法だった。我々貴族が食う分には、高価な香草や香辛料をふんだんに使い、何時間も赤ワインで煮込めば、臭みはある程度ごまかせる。だが、数百人の兵に食わせる肉に、そんな贅沢はできん」


辺境伯は苦虫を噛み潰したような顔をした。


「しかも、柔らかい腿や背の肉は貴族の食卓が優先だ。兵士に回るのは、硬い肩肉や、血の臭いが抜けない内臓に近い部位ばかり。香草もなく、ろくに下処理もできないまま焼いただけの肉など、食えたものではない。兵士たちに力をつけさせるために極秘に食わせようとしたこともあったが、あまりの不味さに吐く者が続出し、士気は下がり、最悪の場合は反乱すら起きかねなかった。結局、研究は暗礁に乗り上げていたのだ」


俺は内心で呆れ果てた。

要するに、「肉を食えば強くなるのは分かっているが、不味すぎて誰も食いたがらないから計画が頓挫していた」というわけだ。この世界の『食文化の貧困さ』が招いた、なんとも切ない喜劇である。


「だが、そなたの料理を食べて、すべてが繋がった」


辺境伯が、長年の焦りを滲ませた熱い目で俺を振り返る。


「そなたの料理があれば、兵士たちは喜んで肉を食う! 毎日食わせ、数ヶ月、半年と続ければ、兵の身体は別物になる。王都の軍勢すら凌駕する辺境最強の軍団を、この地で創り出すことができるのだ!」


「……辺境伯様。自分は、王都と戦うために肉を焼くつもりはございません」


俺の静かな言葉に、辺境伯の熱がわずかに引いた。


「……むろんだ。我が家の使命は辺境の防衛だ。王都と戦うためではない。……それに、今すぐ数百人へ行き渡らせることもできん。まずは一小隊からだ。供給の道を、共に作る必要がある」


俺は肩をすくめた。だが、交渉のカードとしてはこれ以上ないほど強力だ。


「辺境伯様。なら、話は早いですね」

「うむ。そなたの要求通り、ルーンハルト村を私の直轄領として保護しよう。表向きは『辺境防衛・魔獣対策特区』だ。その実態として、村の内部で魔獣肉の加工・配給を許可する。ただし、肉の流通は当面村外へ出すな。記録はすべて直轄の密書扱いだ」


「『肉食解禁』とは言わないのですね」

「当然だ。二百年続く禁忌を公に覆せば、王都の連中と教会が黙っていない。表向きはあくまで魔獣対策のための開拓特区だ。中身は、私とそなたの間だけの話だ」


わかっている男だ。俺は内心で頷いた。


「その代わり、研究のためのデータと、定期的に我が城へ極上の肉料理を納めてもらうぞ。我が軍の『特任食糧顧問』としてな」


「……お引き受けいたします。ただ、一つだけ条件がございます」


辺境伯の眉がわずかに上がる。


「城への納入は、村の食糧を削らない範囲で。余剰分だけです。村が飢える約束はできません」


辺境伯は一瞬黙り、そして口元を緩めた。


「……ただの肉屋が、領主に条件をつけるか。よかろう。正式な勅許状と直轄令は、王都の連中が帰った後に整える。今は私とそなたの間で、約束する」


俺はニヤリと笑い、辺境伯と固い握手を交わした。


二百年続く『肉食禁忌』の常識を、表向きは農村の開拓、実態は食の革命で崩していく――そのための、最も頼もしい味方を、俺は城の地下深くで得たのだった。

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