【第51話】究極のステーキと敗北宣言
本厨房の扉を、肩で押し開けた。
「どきな。メインディッシュの仕上げだ」
中は通夜のようだった。突き返された大皿が調理台に並び、ヴァルターが床にへたり込んでいる。俺の顔を見て、幽霊でも見たように目を剥いた。
特別厨房で下ごしらえを終えた肉を抱え、本厨房の火を借りに来たのだ。特別厨房の小さな窯では、ステーキに必要な圧倒的な火力が出せなかった。
「お前は……!」
「さあ、よく見ておけ。これが本当の『肉の焼き方』だ」
俺は極厚に切り出した野牛のロース肉をまな板に並べた。
そして、フライパンが煙を上げるほど熱された『直前』に、初めて岩塩と粗挽きの森胡椒を振りかけた。
「な、何をしている! 焼く直前では味が染み込まないだろう!」
「早く振ったら、塩の浸透圧で肉汁が外に逃げちまうんだよ。味は後からソースで補う」
ジューーゥゥゥッ!!
高温の鉄板に肉が落ちた瞬間、厨房中に凄まじい音が響き渡る。
表面に濃い焼き目をつけ、香ばしさをまとわせる。俺はさらに、三日かけて精製した『特製の黄金バター』をフライパンに落とした。ジュワッと泡立つ焦がしバターの芳醇な香りが立ち昇り、手首が踊るように動いて度数の高い蒸留酒が注ぎ込まれる。
ボウッ!!
巨大な火柱が上がり、アルコールが飛び、酒の香りだけが肉に残る。炎の熱気とバターの芳醇な香りが厨房の料理人たちの度肝を抜いた。
「よし、火から下ろすぞ」
だが、表面がこんがりと焼けただけの肉を、俺は早々に取り出してしまった。そして、用意していた蜜蝋を薄く塗った厚手の耐熱紙と布で、肉をぐるぐると厳重に包み込み、木箱の中に放置した。
「ば、馬鹿な! まだ中は完全に生だぞ!」
「ここからは『余熱』で火を入れるんだよ。直火で中まで焼こうとするから、お前らの肉は硬くてパサパサになるんだ」
数分後。
静まり返る厨房で、俺が包みを開き、包丁を入れる。
スッ……。
一切の抵抗なく切れた肉の断面は、外側が香ばしい茶色、そして中心は、美しいルビーのような深紅を保ちながら、じんわりと温かい肉汁を湛えていた。
究極の『ミディアム・レア』の完成だった。
「「「おおおおおっ……!!」」」
料理人たちから、自然と感嘆の声が漏れた。
俺はそれを皿に乗せ、ガーリックソース、キノコの濃厚ソース、そしてシンプルな岩塩の三種類を添えて、給仕に持たせた。
* * *
大広間にメインディッシュが運ばれた瞬間、その場を支配したのは『沈黙』だった。
切り口から、澄んだ脂と焦がしバターの香りがゆっくり滲み出した。噛めば噛むほど湧き出る圧倒的な肉の甘みと、三種のソースが織りなす魔法のような味わい。
「……これぞ、至高の肉だ」
国王は静かに口元を拭い、満足げに頷いた。
辺境伯を陥れようとしていた貴族たちの大半は、悔しさすら忘れ、「バイエル殿、この料理人は一体何者だ! 我が家にもぜひ紹介してくれ!」と身を乗り出す始末だった。
だが、あの冷静な貴族だけは違った。
彼はナイフとフォークを静かに置き、口元を布で拭うと、感嘆の声で沸き返る大広間を冷ややかに見渡した。
(……おかしい)
味は認めざるを得ない。だが、なぜこのような革命的な肉の調理技術が、辺境の、しかも平民の料理人から生まれるのだ。王都の最高峰の料理人ですら到達できなかった領域に、無名の男がいきなり現れて立っている。
(この男は何者だ。そして辺境伯は、この男をどこから連れてきた……?)
男は給仕を呼び止め、皿を下げさせる前に、肉の断面をもう一度だけ、じっと見た。
辺境伯は、他の貴族たちの賛辞に包まれ、かつてないほどの高揚感に震えていた。だが、その歓喜の向こうで、一人だけ笑わない貴族がいたことには気づいていなかった。
晩餐会は、バイエル家の大勝利で幕を閉じた。
一方、熱狂が去った後の厨房。
片付けをしていた俺の前に、一人の男が歩み寄ってきた。料理長ヴァルターだ。
ヴァルターは震える膝を折り、深く頭を下げた。
「私の……完敗だ。これまでの無礼、どうか許してほしい。……そして頼む。その技を、学ばせてくれ」
俺はふっと笑い、手を差し伸べた。
「いいぜ。仕込みを手伝ってくれるなら、いくらでも教えてやるよ」




