【第50話】異世界のフルコース
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大広間へ向かう回廊で、ファルク卿は歩を緩めた。
(なんという男だ……。あの者は、本当にただの肉屋なのか?)
大広間へ向かう直前。ファルク卿は使用人用の厨房で見た光景を思い出し、未だに背筋が粟立つような興奮を覚えていた。
テッペイの調理風景は、城の料理長であるヴァルターのそれとは根底から異なっていた。
例えば『大角鹿のモモ肉』。彼は分厚い肉塊を直接火にかけず、獣の腸や豚の膀胱に肉を詰め、空気をできるだけ抜いて固く縛り上げたのだ。真空にはほど遠い。だが、湯の中で肉が乾かず、熱がゆっくり回る程度には十分だった。
そして、その肉の塊を湯の張られた大鍋に沈めた。
「ビニールも温度計もねえのか……。なら指先の感覚だけが頼りだな」
テッペイは、湯に指を浸しては冷水を足し、絶妙な温度――指を浸ければ熱いが、長く耐えられない程度の湯温――を何時間も保ち続けたのだ。魔法の道具もなしに、悪戦苦闘しながらも完璧な火入れを行うその執念。
さらに驚くべきは『バター』の精製だった。
彼は三日前から城の牛乳を集めさせ、自らの手で生クリームを分離し、ひたすら撹拌して黄金色の脂の塊を作り出したのだ。
「こいつを焦がして肉に纏わせる。香りが段違いになるんだよ」
そう言って、見たこともない黄金の脂でステーキを焼き上げる姿は、もはや料理というより未知の錬金術であった。
(あれは、この世界の常識を根底から覆す料理だ)
ファルク卿は、これから大貴族たちが受けるであろう衝撃を想像し、腹の奥で暗い愉悦が湧き上がるのを抑えきれなかった。
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「特別な趣向、だと?」
不機嫌極まりない国王の問いに、ファルク卿は現実に戻り、恭しく一礼した。
「はい。これより、我らが辺境が誇る『肉のフルコース』をお出しいたします」
ファルク卿の合図と共に、使用人たちが一斉に大広間へと入ってきた。
彼らが国王と貴族たちの前に置いたのは、見たこともない料理だった。
「一品目。大角鹿のモモ肉を用いた『ローストビーフ』でございます」
皿の上には、薄くスライスされた肉が花びらのように並べられている。だが、その断面は見事なピンク色をしていた。
「なっ……生焼けではないか! 陛下にこのようなものを!」
「いいえ、ご安心ください。これは『低温調理』という特殊な技法で、何時間もかけて中心まで完璧に火を通しております」
訝しげにしながらも、国王がその薄い肉を一枚口に運ぶ。
次の瞬間、国王の瞳孔が大きく開いた。
「な、なんだこれは……! 噛む必要がないほど柔らかく、肉の旨味が雪のように溶けていくぞ……!」
騒然とする貴族たちをよそに、二品目が運ばれてくる。
「二品目は、野牛の『タルタルステーキ』。今朝仕留めた野牛の、汚れに触れていない中心部の赤身のみを清潔な刃で刻み、城で今朝採れたばかりの生卵を絡めてお召し上がりください」
その言葉に、大貴族の一人が立ち上がって叫んだ。
「生肉に、生卵だと!? 狂っている! そんな野蛮なものが食えるか!」
文句を叫ぶ大貴族をよそに、先ほどのローストビーフで完全に心を掴まれていた国王は、興味深そうにタルタルステーキをすくい上げた。
「へ、陛下! 万が一腹を下されたらどうなさるおつもりですか! おやめください!」
だが国王は一口食べ、しばらく目を閉じた。そして、制止しようとする側近の手を静かに止めた。
先ほどのローストビーフで掴まれた心が、次の未知を求めている。国王は無言のまま、威厳を保ちながらも逆らえないように生肉を口に運んだ。
その瞬間、国王の動きがピタリと止まる。
生肉特有のねっとりとした甘みと、濃厚な卵黄のコク。塩と特製のタレが見事に調和し、脳髄を痺れさせるような暴力的な旨味が口いっぱいに広がっていたのだ。
「美味い……! 止まらん、パンを持ってこい! このソースを余さず拭い取るのだ!」
一心不乱に肉を貪り始めた国王は、ふと顔を上げ、青ざめている貴族たちに向かって恍惚とした表情で言い放った。
「お前たち。これを食わないのは、あまりにも勿体ないぞ」
王がそこまで言うのなら……と、冷笑していた大貴族たちも恐る恐る口をつけた。数秒後、大広間のあちこちから悲鳴にも似た感嘆の声が上がった。
「な、なんだこれはっ!? 獣の臭みなど微塵もないぞ!」
「この舌に絡みつく濃厚な味は……ッ! なぜ生肉がこれほどまでに甘いのだ!」
大半の貴族は先ほどまでの上品な振る舞いも忘れ、夢中で皿に向かっていた。だが、あの冷静な貴族だけは違った。彼は無言でパンをちぎり、皿に残ったソースをひたすら拭い、塗り続けている。何かを分析するような、鋭い目だった。
「さ、三品目でございます。猪豚の薄切り肉を、甘辛い特製ダレと卵で絡めた『すき焼き風』でございます」
醤油の代わりに、蜂蜜と塩、そして果実の汁を煮詰めた特製の甘辛いタレ。
熱々の肉に卵を絡めて口に入れた瞬間、大広間から「おおおおっ……!」というどよめきが上がった。
甘味と塩気が一度に押し寄せ、理性より先に身体が次の一口を求めていた。
「も、もう一口……! 私の皿にはもう残っていないのか!」
「ええい、そっちの肉をよこせ!」
先ほどまで辺境伯を田舎者と見下し、窮地に追い込もうとしていた王都から来た六家の大貴族たちが、今やなりふり構わず肉を奪い合っている。
バイエル辺境伯は、一体何が起きているのか分からず呆然としていたが、必死に「これが我がバイエル家の秘策です」と威厳を保つように胸を張った。
「見事だ、バイエル辺境伯! このような至高の食卓、王宮ですら味わったことがない!」
国王が顔を上気させながら、興奮気味に叫んだ。
これまでの料理だけで、王も貴族たちも十分すぎるほど満たされていた。
だが、その熱狂の中心で、ファルク卿が深く、恭しく頭を下げる。
「恐れ入ります、陛下。しかし――本日の『メインディッシュ』はこれからでございます」
その一言に、大広間が水を打ったように静まり返った。
「な……んだと?」
「これだけ素晴らしい料理を出しておいて、メインディッシュはまだこれからだというのか……!?」
貴族たちの顔に、もはや畏怖に近い驚愕が走る。
ファルク卿は、胸の高鳴りを必死に抑えつけながら静かに告げた。
「はい。メインディッシュの肉は、ただいま特別厨房にて、料理人自らが最後の火入れを行っております」




