【第49話】予備の厨房
ジュッ、と猪豚が鳴いた。
高温のフライパンに置いた瞬間、表面が焼き固まる。使ったのは、わずかな油と塩、それに『山の香草』だけだ。
脂と香草が熱で弾けて、匂いが厨房いっぱいに広がっていく。
数十人の料理人が、いっせいに手を止めた。どこかで、喉の鳴る音がした。
「な、なんだこの匂いは……!?」
ヴァルター料理長は震える手でフォークを取り、俺が差し出した切り身を口に運んだ。
その瞬間、彼の体が硬直した。
焦げ臭さも、獣の臭みもない。
ただ純粋な『肉』の強烈な旨味と、肉の繊維に閉じ込められていた熱い旨味が口いっぱいに弾けたのだ。
彼らが何十年もかけて香草と赤ワインで煮込み、必死に誤魔化してきた肉料理の常識が、たった数分の『焼き』で粉々に打ち砕かれた瞬間だった。
だが。
ヴァルターの喉が一度、大きく鳴った。
その目が、ほんの一瞬だけ見開かれていた。だが次の瞬間、顔を歪めて叫んだ。
「……ふざけるなッ!!」
ヴァルターはフォークを床に叩きつけた。
「こんなものは下等な平民の味だ! 獣の脂の味ばかりが前に出る、野蛮で下品な料理だ! このようなものが、王都の洗練された大貴族様方のお口に合うわけがないッ! 衛兵! この男をつまみ出せ!」
衛兵が駆けつける前に、陰から一部始終を見ていたファルク卿が素早く厨房に現れ、俺の腕を掴んで使用人用の通路へ逃がした。
* * *
俺が去った後の厨房では、残された肉片をこっそりと口に運んだ若い料理人たちが、あまりの美味さに言葉を失っていた。
そして、厨房へ戻ったファルク卿もまた、皿に残っていた肉を口にし、全身に雷が落ちたような衝撃を受けていた。
(……間違いない。私の直感は正しかった。彼は、他の料理人とは次元が違う!)
* * *
城の片隅にある、普段は使われていない使用人用の小さな厨房。
そこに俺をこっそりと案内したファルク卿は、深く頭を下げた。
「すまない、テッペイ。ヴァルターは『あの男を厨房に入れるなら、私は料理長を辞める』と言って聞かなかった。晩餐会を三日後に控えて、料理長の首をすげ替えるわけにはいかん。私の力が及ばなかった」
「気にしてないさ」
「すまない。だが、君の腕は本物だ。万が一に備えて……ここで、晩餐会のための『予備のフルコース』を作っておいてはくれないか?」
「予備のフルコース、ね」
俺は、調理台に運び込まれた食材を見渡し、ゴクリと喉を鳴らした。
大角鹿、野牛、猪豚といった極上の肉の塊。そして、村では絶対に手に入らない希少な香辛料や、城ならではの立派な調理器具の数々。
村での『大肉祭り』以来となる、肉を好きに調理できる機会。しかも今回は、設備も食材も一切の制限がないのだ。三十年間、肉と向き合い続けてきた職人の血が、歓喜で熱く沸き立っていた。
「上等だ……! 腕が鳴って仕方ねえよ」
俺はニヤリと獰猛な笑みを浮かべ、愛用の包丁を抜いた。
「いいぜ。この世界の連中が腰を抜かすような、俺のいた世界の技術を全部ぶち込んだ最高の『肉のフルコース』を用意してやる」
* * *
そして三日後。『王国大評議会』の晩餐会当日。
城の大広間は、絢爛豪華なシャンデリアの光に包まれていた。
長大なテーブルの中央には国王陛下が座り、その左右を王都からやって来た六家の大貴族たちが固めている。
日中の大評議会は、辺境伯の隙のない報告により、王都の貴族たちにとって面白くないほど無難に進行してしまっていた。だからこそ彼らは、この晩餐会で何としても辺境伯に恥をかかせ、「所詮は泥に塗れた辺境の田舎者だ」とマウントを取って貶めてやろうと、手ぐすね引いてアラを探していたのだ。
「さあ、バイエル辺境伯。自慢の料理とやらを見せてもらおうか」
王都の貴族たちが、冷ややかな笑みを浮かべる。
やがて、ヴァルターが精魂込めて作り上げた『大角鹿の香草赤ワイン煮込み』が大皿に乗せて運ばれてきた。
一口、それを口に運んだ国王の動きが止まった。
辺境防衛を担う辺境伯を高く評価し、なるべく庇おうとしていた国王でさえ、咀嚼した肉から滲み出た強烈な臭みとパサパサの食感に、顔をしかめざるを得なかった。
「……辺境伯よ。余もそなたの忠誠は高く評価しているが……これは、いささか目に余るのではないか?」
国王が苦渋の表情でフォークを置いた瞬間、待ってましたとばかりに一人の大貴族が立ち上がり、声を荒らげた。
「辺境伯! 陛下にこのような泥と血の味を食わせるとは何事か! これが貴様の忠誠か!」
「やはり泥に塗れた辺境の野蛮人だな。田舎者はこれだから困る」
「辺境伯どのは、たまには我々の王都に赴いて、貴族の嗜みというものを一から学び直したほうが良いかもしれませんな!」
嘲笑の嵐の中、一人だけ無表情のまま静かにフォークを置いた貴族がいた。
「……これは、確かに料理として客に出すべきものではない」
冷たく、しかし正確な一言だった。感情的な侮辱ではなく、純粋な事実としての否定。それがかえって、辺境伯の胸を深くえぐった。
他の貴族たちも同調し、大広間には一斉に嘲笑と非難の声が響き渡った。
いつも庇ってくれる国王にまで見放される形となり、バイエル辺境伯は顔面を蒼白にした。
(申し訳ございません、陛下……っ。だが、このままでは当家だけでなく、陛下の顔にまで泥を塗ることになってしまう!)
どうにかしてこの最悪の空気を打開しなければと、絶体絶命の窮地で辺境伯が冷や汗を流していた、まさにその時。
大広間の重い扉が開き、ファルク卿が静かに進み出た。
「恐れながら陛下。本日は辺境伯様より、もう一つ『特別な趣向』をご用意しております」




