【第48話】厨房の壁
翌日の昼前。
ファルケンシュタイン城。バイエル辺境伯の居城であるその巨大な石造りの建築物は、近くで見ると見上げるほどに高く、威圧的だった。
俺は約束通りファルク卿の手引きにより、通用口から城内へと入り、広大な地下の厨房へと案内された。
そこは、トーマスの食堂が十個は入りそうなほどの広さだった。
壁際に並ぶ巨大な石窯。天井から吊るされた無数の鍋やフライパン。数十人の料理人や下働きたちが、怒号を飛ばしながら慌ただしく立ち働いている。
まさに、戦場だ。
だが、俺が厨房に足を踏み入れた瞬間、その喧騒がピタリと止んだ。
「ファルク卿……。冗談はおやめください。この男が、あの下品な『白ソース』とやらを作ったという、下町の料理人ですか」
厨房の奥から、真っ白なコックコートを着た恰幅の良い男が歩み出てきた。
きっちりと撫でつけられた銀髪に、神経質そうな細い目。胸元には、料理長を示す金の刺繍が入っている。
「冗談ではないぞ、ヴァルター。彼の腕は本物だ。まずは今日の辺境伯様の昼食で、彼に腕を振るってもらいたい。大評議会の晩餐会を任せられるかどうかの、試食も兼ねてな」
ファルク卿の言葉に、ヴァルターと呼ばれた料理長の顔が、屈辱で真っ赤に染まった。
「お断りします! この神聖な城の厨房に、平民の……それも下町の定食屋風情を入れるなど、私の誇りが許しません! 第一、彼らに許されている食材で、舌の肥えた大貴族様方を満足させられるわけがないでしょう!」
ヴァルターの言い分ももっともだった。
この世界の平民は、肉を食うことが法で禁じられている。平民の料理人が扱えるのは、野菜、穀物、一部の川魚、そして卵や乳製品くらいのものだ。
対して、貴族の晩餐会のメインは、間違いなく『肉』だ。
「ヴァルター。これは辺境伯様のご意向も含まれているのだぞ」
「だとしてもです! 魚や野菜、香草の扱いや煮込みの技術、晩餐会の運営にかけては、私に勝る者はこの城におりません。今日の昼食も私が作ります。この神聖な調理台には、指一本触れさせません!」
ヴァルターは頑なだった。ファルク卿が困ったように俺を見たので、俺は軽く肩をすくめてみせた。
「構いませんよ。人の城に土足で踏み込んで、いきなり鍋を握らせろなんて図々しいことは言いません。隅っこで大人しく見学させてもらいます」
ファルク卿はため息をつき、ヴァルターに向き直った。
「……ヴァルター。ならば、彼に試作を一皿だけ許可しろ。彼にまともな食材を渡すんだ。これは命令だ」
それだけを残し、ファルク卿は厨房を去っていった。
ヴァルターは俺を忌々しそうに一瞥すると、「試作だと? ふん、余り物の肉の切れ端でも使わせておけ。……おい! お前ら、手を止めるな! 評議会まであと三日しかないんだぞ!」と叫び、再び厨房の指揮に戻った。
俺は約束通り、厨房の隅にある木箱に腰を下ろし、城の料理人たちの仕事ぶりを観察することにした。
(さて、貴族様のお抱え料理人たちの腕前は、どれほどのものか……)
そう思いながら眺めていた俺だが、すぐに一つの事実に気づいた。
彼らの魚や野菜の扱い、香草のブレンド、そして何十もの鍋を同時に管理する手際の良さは、確かに王都の料理長を名乗るだけはある一流のものだった。
だが――『肉』の扱いに関しては、眉間に深いシワが寄っていくのを感じた。
「おい、その『大角鹿』の肉、早く切り分けろ! 多少の筋は構わん、どうせ香草で煮込むんだ!」
「肉が硬くて包丁が通りません!」
「力任せに叩き切れ! 香草で臭みを覆えば問題ない!」
思わず、立ち上がりそうになった。
他の料理が一流だけに、肉の扱いだけが素人同然なのだ。
大角鹿といえば、この辺境の森でも獲れる高級な獣肉のはずだ。
だが、彼らは肉の繊維の向きをまったく無視して、ノコギリのような刃物でギコギコと力任せに切断している。あれでは旨味の詰まった肉汁がすべて流れ出てしまう。
しかも、血抜きが不十分なせいで、肉の断面がどす黒く変色している。
あんな状態の肉をそのまま焼いたり煮込んだりすれば、強烈な獣臭さが残るはずだ。
(……なるほどな)
俺は木箱に座ったまま、一つの確信に至った。
この世界の貴族たちは、肉を独占している。魔法耐性を得るため、あるいは特権階級の象徴として。
だが、特権として『独占』しているがゆえに、この世界には肉を美味しく食べるための『食文化』が育たなかったのだ。
競争がないから、調理法が進化しない。
下ごしらえの技術も、熟成の概念も、部位ごとの適切な火入れの知識も、ここにはない。
彼らはただ、硬くて臭い肉を、強い香草や香辛料で誤魔化して、無理やり胃袋に詰め込んでいるだけなのだ。
大角鹿の解体作業とは別に、厨房の奥から新たな声が上がった。
「ヴァルター料理長! 本日の辺境伯様の昼食用の『猪豚』のロースト、焼き上がりました!」
「よし、たっぷりと赤ワインのソースをかけろ。肉の臭みを消すんだ」
オーブンから出された肉の塊を見て、俺は木箱から立ち上がり、静かに調理台へ歩み寄った。
「待ってください。その肉、切る前に俺に三十秒だけ見せてください」
「な、なんだお前は!」
若い料理人が怪訝な顔をする。俺はまな板の上の肉を指差した。
「このまま切れば、せっかくの肉汁が全部流れます。昼食を台無しにしたくないなら、触らせてください」
「おい! 何をしている、下町の料理人! 肉に触れるな!」
ヴァルターが血相を変えて飛んできた。
「煮込みの組み立ては悪くないですよ、ヴァルター料理長。だが、この肉はその前に助けないと駄目だ」
「ふざけるな! お前のような素人に教わることなど何もない! 構わん、切れ!」
ヴァルターの命令で、若い料理人が無理やり包丁を入れる。
その瞬間――肉の断面から、生ぬるい赤い肉汁がとめどなく溢れ出し、まな板を汚した。
外側は炭のように焦げ、中心の生焼け部分からは旨味の詰まった水分が逃げ出し、見るも無惨なパサパサの塊に成り果ててしまった。
周囲の下働きたちも、その切り口の悲惨さに息を呑む。これでは香草をいくら足しても臭みは抜けない。
「……三分だけ貸してください」
呆然とする若い料理人の手から、俺は静かに包丁を受け取った。
「止めろ! その肉は辺境伯様の昼食だぞ! いくらファルク卿の許可があろうと、そのような勝手は許さんぞ!」
ヴァルターがわめく中、俺は焦げた表面を素早く削ぎ落とし、中心の生焼けの部分だけを正確に切り出した。そして、繊維の向きを見極め、厚みを均等に揃える。
強火にかけた別のフライパンに少量の油を引き、肉の表面を一気に焼き固め、香ばしい香りを立たせた。その後、素早く火から外し、厨房にあった厚手の布で包み、熱を逃がしすぎないようにして余熱で中まで火を通した。
そして少し休ませて、肉汁を落ち着かせる。
一連の淀みない流れるような動作に、厨房の全員が言葉を失っていた。
「肉はな、ただ火を通せばいいってもんじゃねえんだよ。命をいただくんだ。最高に美味くしてやらなきゃ、死んだ獣に申し訳が立たねえだろうが」
さあ、特等席で見せてやる。
お前らが独占してきた『肉』の、本当の美味さってやつを。




