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【第47話】鷹の紋の客

ルーンハルト村でブルクハルトを退けた頃、ファルケンシュタインでは王国大評議会に向けた準備が加速していた。


ファルケンシュタイン城、辺境伯の執務室。

分厚い樫の机には、晩餐会のメニュー案が何枚も広げられていた。


「また大角鹿の煮込みか……」


バイエル辺境伯は、疲労の色が濃い顔で深くため息をついた。

城壁の外では、肉は『穢れ』として平民たちに恐れられている。だが、この部屋にいる者は皆、それが平民を従順に保つための建前に過ぎないと知っていた。強大な魔力を持つ特権階級の王侯貴族たちにとって、肉食は強さと権力の象徴であり、閉ざされた晩餐会では当然のように肉料理が振る舞われるのだ。


魔獣が跋扈する過酷な辺境。この地を代々治める辺境伯家は、その堅実な防衛手腕により国王から厚い信頼を得ている。だが、それゆえに王都の貴族たちからは激しい嫉妬を買い、「泥に塗れた野蛮な田舎者」と常に見下されていた。


「辺境伯様。今回の大評議会は、奴らにとって格好の舞台です」


傍らに控える執事長、ファルク卿が険しい顔で言った。


「連中は、王の御前で辺境伯様に恥をかかせ、自分たちとの立場の差を決定的なものにしようと手ぐすね引いて待っております。ここで奴らが一言も文句を言えないような、圧倒的な晩餐会を開かなければなりません」

「わかっている。だがヴァルター、伝統的な煮込み料理だけでは、美食に飽きた王都の連中を黙らせることなどできんぞ」

「しかし辺境伯様! これが我が辺境の誇る最高の伝統料理でございます!」


料理長ヴァルターが食い下がるが、辺境伯の表情は晴れない。


「伝統だけでは奴らの嘲笑は防げん。何か、誰も食べたことがないような強烈な『驚き』が必要なのだ。……すまないヴァルター、もう少し考えさせてくれ」


不満げな顔でヴァルターが退室すると、ファルク卿が一歩前に出た。


「辺境伯様。実は最近、城の若い兵士たちの間で、ある妙な噂が広まっております」

「噂?」

「はい。下町の小さな食堂で、誰も味わったことのない『白ソース』なるものが流行っていると……」

「下町の食堂? いくらなんでも、それでは大貴族の不興を買うだけではないか」

「もちろん、そのまま晩餐会に使うわけではありません。ですが、今の保守的な厨房にはない『新しい発想』の種くらいは拾えるやもしれません。私がいちど、腹ごなしついでに確かめてまいりましょう」

辺境伯は重く息を吐き、静かに頷いた。

「……頼む。今はどんな小さな可能性でも拾い集めたい」


     * * *


その数日後。


「お待ちどおさま! 芋の薄切り揚げ、白ソース添えだ!」


昼時のトーマスの食堂は、戦場のような忙しさだった。

王国大評議会の開催が布告されてからというもの、城下町には他領からの先遣隊や商人、警備の兵士たちが次々と流れ込み、街全体の人口が急激に膨れ上がっていた。


「おい、こっちにも白ソースを頼む! これがないと昼飯を食った気がしねえ!」

「こっちの豆のスープにも混ぜてくれ!」


飛び交う怒号のような注文を、俺は厨房の中で次々と捌いていく。

客のお目当ては、なんといっても俺が考案したマヨネーズ——この街では『白ソース』と呼ばれている——だった。


植物油と卵黄、果実酢を乳化させただけのシンプルなものだが、肉食を禁じられ、油分とコクに飢えていた平民たちにとって、その濃厚な味わいはまさに革命だった。

安価な根菜を揚げたものにたっぷりと白ソースをつければ、それだけで極上のご馳走に化ける。


最初は城門の番兵が通い始め、その噂が下級騎士へ、さらには城で働く文官たちへと広がり、今やトーマスの食堂は城関係者の溜まり場のような状態になっていた。


「ふう……やっと一息つけるな」


昼のピークが過ぎ、店内の客がまばらになり始めた頃。

カラン、と控えめにドアベルが鳴り、一人の客が入ってきた。


「いらっしゃい! すまねえな、今日の芋揚げはもう終わっちまったんだが……」


トーマスが声をかけ、俺も厨房の小窓から何気なくその客を見た。

瞬間、俺の商売人としての勘が、鋭く警鐘を鳴らした。


(……ただの客じゃないな)


年齢は五十代半ばといったところか。

くすんだ灰色の地味な外套を羽織っているが、仕立ての良さは隠しきれない。生地の光沢、歩くときの無駄のない足運び、そして何より、背筋の伸びた威厳のある姿勢。

どう見ても、その辺の平民の老爺ではない。


「構わんよ。何か、この店で一番人気のあるものを少しだけ出してもらえないか」


落ち着いた、よく響く声だった。

トーマスは少し戸惑ったように俺の方を見た。俺は小さく頷き、すぐに調理に取り掛かった。


芋は切らしているが、ルーンハルト村の特産品である『山の香草』と、近くの森で採れたキノコがある。

俺はそれらを細かく刻み、少量の小麦粉と卵でまとめ、高温の油で一気に揚げた。特製の香草かき揚げだ。そこに、作りたての白ソースをたっぷりと添える。


「お待ちどおさま。香草とキノコの揚げ物、白ソース添えです」


俺が直接テーブルへ料理を運ぶと、初老の男は興味深そうに皿を見つめた。


「これが、城の若い連中がこぞって絶賛しているという『白ソース』か……」


男はフォークでかき揚げを小さく切り、たっぷりとソースを絡めて、ゆっくりと口に運んだ。

その瞬間。


ピタッ、と男の動きが止まった。


大きく見開かれた両目が、皿の上の料理と、俺の顔を交互に見比べる。


「……信じられん。卵と油、それに酢か? ただそれだけの組み合わせで、これほど濃厚で複雑な旨味が生まれるというのか」


男は独り言のように呟きながら、次々とフォークを口へ運んだ。

油の熱で引き出された香草の爽やかな香りと、キノコの旨味。それを、マヨネーズのコクと酸味が完璧に包み込んでいる。


「美味い。いや、美味いなどという単純な言葉では表せない。これほどの鮮烈な味は、王都の貴族御用達の料理店ですら味わったことがないぞ」


あっという間に皿を空にした男は、口元を布で拭い、まっすぐに俺を見た。


「君が、これを作ったのか?」

「ええ。俺の名前はテッペイ。この食堂の雇われ料理人です。お口に合いましたか、お客人……いや。城にお仕えの方、とお呼びした方がよさそうですね」


俺がそう言うと、男の目が鋭く細められ、店内の空気が一気に張り詰めた。

奥で片付けをしていたトーマスが、「えっ?」と間抜けな声を漏らして固まっている。


「……ほう。なぜ、そう思う?」


男は、静かな、しかし確かな威圧感を放って問いかけてきた。

俺は肩をすくめ、彼が椅子に掛けた外套を指差した。裾がわずかに裏返り、内側の刺繍が覗いている。


「裏地の隅に、銀糸で鷹の紋章が刺繍されていますからね。ファルケンシュタインの鷹の紋を身につけることが許されているのは、辺境伯様の身内か、ごく一部の側近だけだ。そして、その年齢と威厳……。もし違っていたら失礼ですが、辺境伯様の右腕であるファルク卿では?」


精肉店時代、一流のレストランのシェフや高級ホテルの仕入れ担当を相手にしてきた経験が生きている。相手の身なりや小物から素性を推測し、懐に飛び込むのは商売の基本だ。


ファルク卿は数秒間俺を睨みつけていたが、やがてふっと肩の力を抜き、苦笑した。


「……恐れ入った。鋭い観察眼だ、料理人テッペイ。君の言う通り、私はファルク。辺境伯様に仕える執事長だ」


彼はそう言って、姿勢を正した。


「実は今日ここへ来たのは、ただの腹ごなしではない。君の腕を見込んで、一つ頼みがあってね」

「頼み、ですか」

「ああ。君も知っての通り、まもなくこのファルケンシュタインで『王国大評議会』が開催される。国王陛下と、他の六大貴族がこの地を訪れるのだ」


ファルク卿の顔に、深い苦悩の影が差した。


「辺境伯様は領民想いの素晴らしいお方だが、いかんせんこの辺境は、王都の貴族たちからは『野蛮な田舎』と見下されている。彼らを満足させるような、常識を覆す圧倒的な晩餐会が開けなければ、領主としての辺境伯様の面目は丸潰れになる」

「だが、城の厨房にはそれほどの隠し玉がない……と」

「城の料理長も腕は確かなのだが、良くも悪くも伝統的で保守的すぎるのだ。王都の美食に飽きている大貴族たちに、これまでの枠にとらわれない、強烈な『驚き』を与えたい。……テッペイ。君のその『白ソース』のような、常識を覆す発想が必要なのだ」


ファルク卿は、俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「君の腕は本物だ。だが、大評議会は国家級の重要事。私の一存で晩餐会の料理人を決めるわけにはいかない。……まずは明日、城の厨房で辺境伯様のために数品作ってもらえないだろうか。この白ソース以外にも、何か王都の貴族たちを驚かせるような『新しい発想』を持っていれば、なお良いのだが」


ドクン、と。

胸の奥で、心臓が大きく跳ねる音がした。


二百年の支配を崩すための、第一歩。

そのためにはまず俺自身が貴族の懐に近づき、彼らに価値を認めさせなければならないと考えていた。

その千載一遇のチャンスが、向こうから歩いてきて、扉を叩いたのだ。


「……いいでしょう。お引き受けします」


俺は、込み上げてくる獰猛な笑みを必死に抑え込みながら、深く頭を下げた。


「ただし、俺の料理は癖が強いですよ。白ソースなんて序の口です。王や貴族様方の常識を、ひっくり返してしまうかもしれませんがね」

「望むところだ。辺境の底力を、王都の連中に見せつけてやってくれ。明日の昼前、城の通用口へ来るように」


ファルク卿は満足げに頷き、金貨を一枚テーブルに置いて店を去っていった。

残された店内で、トーマスが腰を抜かしたようにへたり込んでいる。


「テ、テッペイ……お前、本当に城の厨房に立つのか……?」

「ええ。行ってきますよ、トーマスさん」


俺は、厨房に置かれた愛用の肉切り包丁を見つめた。

魔法耐性などなくても、剣など握れなくても、俺には三十年研ぎ澄ませてきたこの武器がある。


舞台は整った。

あとは、最高に美味い『肉』を焼き、あの連中の常識を食卓からひっくり返すだけだ。

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