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【第46話】幕間・帳面の戦い

テッペイがファルケンシュタインの城下町へ旅立ってから、三ヶ月が経とうとしていた。


ルーンハルト村の春は遅い。だが、雪解けとともに広がる黒土は、かつての荒れ果てた死の土地ではなくなっていた。

新しく開墾された畑には青々とした芽が吹き出し、村人たちの顔には、厳しい冬を乗り越えたという確かな自信と活気が満ちていた。


「おい、ユーリ! その丸太、もう少し右だ!」

「わかってる! そっちも引っ張ってくれ!」


村の広場では、移住者用の新しい小屋の建設が進められていた。

驚くべきは、ユーリたち若い衆の働きぶりだ。大人が三人かがりで運ぶような太い丸太を、ユーリと数人の若者だけで軽々と持ち上げている。

彼らの体つきは、テッペイが村にやってきた半年前の、あの骨と皮ばかりだった姿からは想像もつかないほどに逞しくなっていた。


テッペイから密かに届けられた手紙。

『獲れた獲物は絶対に村の外へ出すな。今まで通り、解体を手伝う若い衆の賄いに回せ』


その言いつけ通り、村の若者たちはガルドと共に森へ入り、仕留めた魔獣の肉を密かに食い続けていた。

肉の持つ圧倒的な栄養価。そして、没落貴族ヴァレリウスが語った『魔法耐性』につながる力。

目に見える魔法への耐性が備わったかはまだわからないが、少なくとも彼らの筋力と体力は、普通の平民のそれを遥かに凌駕し始めていた。


そんな活気に満ちた村の空気が、一台の立派な馬車が村の入り口に姿を現した途端、ピリッと張り詰めた。


「……来たか」


広場の隅で小屋の建設を見守っていた村長ベルントは、深くシワの刻まれた眉間をさらに険しくした。

馬車には、ハルテン徴税管区の紋章が描かれている。


中から降りてきたのは、分厚い羊皮紙の束を抱えた冷血な男。

徴税官ブルクハルトだ。


「やあ、ベルント村長。約束通り、三ヶ月後の再査定にやってきたよ」


ブルクハルトは薄い唇を吊り上げ、村を見回した。

その目は、豊かになり始めた村の様子を、まるで肥え太った豚でも見るかのように値踏みしている。

彼の後ろには、数人の護衛の兵士と、フェルゲン商会の手代と思われる小太りの男が控えていた。


「出迎えご苦労。さあ、帳簿を出してもらおうか。この村がどれだけ『正当な』利益を上げているか、きっちりと見極めさせてもらうからね」


ブルクハルトの言葉には、隠しきれない悪意が滲んでいた。

三ヶ月前、不当な監査で村の備蓄と資金を奪い去った彼は、今回も適当な難癖をつけて新たな税を課し、村の利益をすべて搾取するつもりなのだ。


ベルントは静かに頷き、ブルクハルトたちを村長の家へと案内した。


「さあ、まずは直近三ヶ月の蒸留酒と蜂蜜酒の出荷記録を見せてもらいましょうか」


村長家の粗末なテーブルに座るなり、ブルクハルトは高圧的に言い放った。


ベルントは無言で、机の下から一冊の分厚い革張りの帳面を取り出した。

それは、かつてテッペイが「商売の基本だ」と言って、徹底的にエルストに仕込ませた記録の集大成だった。


「こちらが、すべての取引記録です。日付、品目、重量、そして取引相手の商会名と買い取り価格がすべて記載されています」


ベルントが帳面を開くと、ブルクハルトの目がわずかに見開かれた。

そこには、歪みのない几帳面な字で、収入と支出が左右に分けて記され、銅貨一枚の誤差もなく完璧に釣り合っていた。平民の村長が書いたとは到底思えない、見事な計算だ。


「……ほう。随分と小綺麗な帳簿ですね。誰の入れ知恵ですか?」

「村長としての私の責任と義務です」


ブルクハルトは舌打ちを堪えるようにして、帳簿に目を落とした。

そして、すぐに不敵な笑みを浮かべる。


「なるほど、素晴らしい利益だ。しかし村長、あなたは税法第七条の第三項を忘れているようですね。『新規開拓地において、想定利回りが基準値を二割以上超えた場合、超過分に対して五割の特別税を課す』。この帳簿を見る限り、あなた方の利益は明らかに基準を超過していますよ」


ブルクハルトの横で、フェルゲン商会の手代がいやらしい笑いを浮かべた。


「お困りでしょう、村長さん。ですがご安心を。我がフェルゲン商会と専売契約を結んでいただければ、この特別税の支払いを肩代わりする用意があります。もちろん、今後の酒はすべて適正価格(タダ同然)で引き取らせていただきますがね」


彼らの手口は明確だ。

難癖をつけて法外な税をふっかけ、支払えなくなったところを商会が買い叩く。領主の威光を傘に着た、合法的な略奪だ。


しかし、ベルントは動じなかった。

彼は引き出しから、もう一枚の羊皮紙を取り出し、ブルクハルトの目の前に突きつけた。


「徴税官殿。税法第七条第三項には、確かにそう書かれています。しかし、同時に同法第九条にはこうもあります」

三ヶ月前、ブルクハルトが置いていった査定書には、適用された税法の条文番号が細かく記されていた。エルストはゲルハルトを通じて税法の写しを探し出し、それらの条文の内容を隅々まで確認していたのだ。

「『ただし、その利益が領地の防衛、または魔獣対策のための設備投資に充てられた場合、特別税は免除される』と」


ブルクハルトの顔から、スッと笑みが消えた。


「防衛? 魔獣対策? 冗談を。この村のどこにそんな大層な設備があるというのですか」

「これです」


ベルントは窓の外を指差した。

そこでは、ユーリたちが建設中の新しい小屋……ではなく、村を囲うように新たに立てられた、強固な防壁の基礎工事が行われていた。

太い丸太を何本も組み合わせ、深く地面に打ち込んだ防壁だ。


「この三ヶ月の利益の大部分は、防壁の強化と、見張り台の建設資材に充てました。これらはすべて、領地の防衛に資する『魔獣対策』の設備投資です。帳簿の支出欄に、詳細な資材購入記録と労働対価が記載されています。超過利益など、どこにもありません」


(魔獣だけを防ぐためではない。だが、今はそういうことにしておく)


ブルクハルトはひったくるように帳簿を奪い、支出欄を食い入るように見つめた。

そこには確かに、防壁建設のための資材費と、村人への正当な賃金の支払いが、完璧な計算で記録されていた。

テッペイが去り際に残した「利益は溜め込まず、村の防衛と発展に投資しろ」という言葉を、ベルントは忠実に実行していたのだ。


「馬鹿な……! こんな田舎の村長が、税法の特例条項まで熟知しているだと……!?」


ブルクハルトの顔が、屈辱と怒りで朱に染まる。

彼が武器にしていた『法』と『帳面』という二つの刃を、ベルントは完璧に防ぎきり、逆に突き返したのだ。


「……査定は終わりです、徴税官殿。正当な基本税につきましては、すでに指定の倉庫へ納入済みです。ご足労いただき、ありがとうございました」


ベルントの静かで、しかし決して揺るがない言葉に、ブルクハルトはギリッと歯を鳴らした。

これ以上難癖をつければ、自らの査定能力を疑われることになる。


「……よかろう。今日のところはこれで引き上げてやります」

ブルクハルトは帳簿を机に叩きつけ、忌々しそうに立ち上がった。だが、その目はまだ死んでいない。

「しかし、その立派な防壁が、領主の許可なく築かれた軍事施設でないことを祈りますよ。ただの農民が徒党を組み、無断で武装化を進めている……領都の査察官には、そう報告しておくこともできますからね」

ねっとりとした脅し文句を残し、ブルクハルトは手代を連れて逃げるように馬車へと乗り込んだ。

馬車が村を去っていくのを見届けてから、ベルントは深く、長く息を吐き出した。


「……テッペイの言う通りだったな」


ベルントは、机の上の帳面にそっと触れた。

武力や魔法で貴族に逆らえば、即座に反逆罪で村は焼かれる。

だが、彼らが作ったルールの中で、知恵と計算を使って戦うことはできる。これは、テッペイが村に残してくれた『戦い方』だった。


その夜。

無事に査定を乗り切った祝いとして、ささやかな宴が開かれた。

といっても、村人全員が集まるような派手なものではない。念のため見張り役を村の入口へ立たせ、外から見えにくい裏手の納屋に、ベルント、エルスト、そして狩りから戻ったユーリたち若い衆だけが集まっていた。


木箱を並べただけの食卓の中央には、湯気を立てる分厚い魔獣の肉が盛られている。

煙の少ない炭火を使い、村長家の奥の竈でじっくりと火を通してから運び込んだ一品だ。表面は香ばしく焼かれ、中からはたっぷりの肉汁が溢れ出している。テッペイ直伝の焼き方だった。


「食え。今日ばかりは、腹一杯食っていいぞ」


ベルントの言葉に、若者たちは歓声を上げて肉に食らいついた。

「そういやガルドの奴、こないだバカでかい魔獣相手に、額の十字模様を光らせて魔法で撃ち飛ばしてたぞ」

「俺たちも肉食ってりゃ、いつかあんな風に火でも吹けるようになるのかね」

彼らの旺盛な食欲と、肉を食うたびにみなぎる生命力。それを見ているだけで、ベルントは村の未来が少しずつ明るい方へ向かっていることを実感できた。


だが、宴の喧騒から少し離れた村の入り口で。


『ウォォォォォォォォ……ッ!』


月明かりの下、巨大な銀狼ガルドが、東の空に向かって長く不吉な遠吠えを上げていた。


東の山脈。

『竜の巣』と呼ばれるその険しい峰の頂には、厚く淀んだ雲が渦を巻いている。

ガルドの金色の双眸は、その雲の奥でうごめく何か強大な気配を、確かに捉えていた。


王国大評議会を前に、辺境の防衛が揺らげば、真っ先に責任を問われるのはバイエル辺境伯だ。

平和な夜の闇に溶け込んでいく遠吠えは、いずれ訪れる避けられない脅威を、静かに村へ告げていた。

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