【第45話】布告
ヴァレリウスが去った翌朝。
俺は狭い屋根裏部屋のベッドで目を覚ましたが、昨夜の興奮でろくに眠れていなかった。
肉食禁忌の正体。それは、平民に力をつけさせたくない貴族どもの、二百年がかりの茶番劇だった。
二百年もの間、絶対的な暴力として君臨してきた魔法という力。
平民たちはその力に怯え、抗うことなど考えもせず、ただ重税と貧困に耐え続けてきた。
だが、その絶対的な力に抗う手段が、俺がずっと焼き続けてきた『肉』だったのだ。
もし、肉を食える平民が少しずつ増えていけば、貴族たちの魔法は決定的な脅威ではなくなるかもしれない。
そうなれば、この狂った階級社会も根底から崩れ去るはずだ。
だが、朝になって厨房に立ち、山積みの玉ねぎの皮を剥き始めると、冷や水でも被ったように頭が冷えてきた。
肉で魔法への耐性を得たからといって、平民が貴族に武装蜂起でもするというのか?
そんなことをすれば、血で血を洗う凄惨な内乱になる。相手は二百年かけて今の支配システムを築き上げた貴族たちだ。法と軍隊と富を独占している彼らと正面からぶつかれば、無力な平民の血が流れ、結局は叩き潰されて終わるだろう。
武力で叩き潰すような、現実離れした革命を俺は望んでいるわけじゃない。
俺は一介の肉屋であり、雇われの料理人だ。俺の武器は剣でも魔法耐性でもなく、包丁と商売だ。
今の貴族たちは、不浄という嘘で平民を縛り、押さえつけて搾取しているだけだ。
だが、もし平民に自由を与え、きちんと処遇すればどうなるか。平民が力をつけて経済が回れば、結果的に貴族たちにも大きな得があるはずだ。
力で奪い合うのではなく、商売を通じて貴族と平民が対等に向き合えるような世界。俺が目指すべきは、そんな変革だ。
そのためには、まず俺自身が貴族の懐に近づき、彼らにその価値を認めさせなければならない。
俺はその日の夜、市場街の紙屋で羊皮紙の端切れを買い求め、ルーンハルト村のベルント村長宛ての手紙を書いた。
近々ハルテン方面へ向かうという行商人を見つけ、ゲルハルトへの中継を頼めば、村まで確実に届けてもらえるはずだ。
手紙には、城下町での商売が順調に滑り出したこと。当分はこちらで貴族たちの内情や情報を集めるため、村には戻れないことを書いた。
俺が不在の間、村での商売や新しい移住者のことは、ベルントやエルストたちを頼りにしているという言葉も添えた。
そして、最後にユーリたち若い衆に向けた伝言を書き記した。
『狩りの腕を落とすな。ガルドと一緒に森に入り、獲れた獲物は絶対に村の外へ出すな。今まで通り、解体を手伝う若い衆の賄いに回せ。美味い肉の焼き方は教えた通りだ。ただし、絶対に目立つな。いずれ必要になる日が来る。それまで、誰よりも力をつけておけ』
はっきりと「魔法耐性を得るためだ」と書くわけにはいかない。道中で誰に読まれるかわからないからだ。
だが、勘のいいユーリや、鋭い洞察力を持つベルントなら、ただ事ではないと察してくれるだろう。
村の連中が、ガルドが仕留めた魔獣の肉を食い続ければ、いずれ二百年前の平民たちのように、強靭な体と魔法への耐性を獲得するかもしれない。
それがいつになるかはわからない。一年後か、五年後か、もっと先の話かもしれない。
それでも、種は蒔いておかなければならなかった。
いつか来る変革の日に、理不尽な暴力に押し潰されない盤石な足場を作るために。
ハルテン方面へ向かう行商人に手紙を託し終えると、俺は再び日常に戻った。
トーマスの食堂での仕事は、日に日に忙しさを増していた。
俺が考案した白いソース……油と卵と果実酢を乳化させた、こちらの世界に合わせたマヨネーズが、大当たりの評判を呼んでいたからだ。
「おい、テッペイ! こっちの野菜焼きにも、あの白いトロトロしたやつをたっぷりかけてくれ!」
「こっちの豆の煮込みにも頼む! あれを混ぜると、安い豆がご馳走になるんだ!」
相変わらず、出される食事に肉はない。
だが、植物性の油と卵の濃厚なコク、それに適度な酸味が加わったマヨネーズは、味気ない塩味の食事に慣らされていた彼らの胃袋を確実に掴んでいた。
最初は城門の番兵が通い始め、その噂を聞いた下級騎士や役人までが制服姿のまま列を作るようになった。
「お待ちどおさま! 芋の薄切り揚げ、白ソース添えだ!」
俺は愛想笑いを浮かべながら、客の皿に料理を盛りつけていく。
焦るな。今はまだ、顔と味を売る時期だ。
彼らの胃袋を俺の味で掴めれば、いざという時に必ず役に立つ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は黙々と包丁を握り、フライパンを振り続けた。
そんな日々が二週間ほど続いたある日のこと。
昼時のピークが過ぎ、ようやく一息つけるかという時間だった。
突然、通りの向こうから、地鳴りのような歓声とざわめきが波のように押し寄せてきた。
ブォォォォォ……!
遠くから、重々しい角笛の音が響く。
城からの正式な通達がある時の合図だ。
「なんだ、やけに騒がしいな」
俺が厨房から顔を出すと、店の中で休んでいたトーマスも怪訝そうな顔で立ち上がった。
「ちょっと表を見てくる」
トーマスが店を出て行ったかと思うと、すぐに血相を変えて飛び込んできた。
その太い声が、普段からは考えられないほど上ずっている。
「テッペイ! えらいことになったぞ!」
「どうしたんですか? 暴動でも起きたのか?」
「違う! 布告だ。城の使いが中央広場で布告を読み上げている!」
トーマスは息を切らしながら、俺の肩を掴んだ。
「王国大評議会だ! 今年はここ、ファルケンシュタインで開催されることになったんだ!」
「……王国大評議会?」
俺が首を傾げると、普段は寡黙なトーマスが、珍しく顔を紅潮させて口を開いた。それほどまでに、この街の平民にとっても一大事ということなのだろう。
「お前、そんなことも知らないのか。年に一度、国王様と七大貴族が一同に集まって、国の方針を決める一番大きな会議だ。毎年、七つの領地を持ち回りで開催する決まりになってるんだよ」
トーマスの説明を聞いて、俺はようやく事の重大さを理解した。
ティレニア王国のトップである王と、その下で実権を握る七人の大貴族。
彼らが全員、この城下町にやって来るのだ。
「こりゃあ、大変なことになるぞ。ただでさえ、うちは東の山脈の『竜の巣』や魔獣の森を抱えてて、防衛にばかり金がかかる。他の領地の貴族からは『金食い虫の田舎者』って馬鹿にされてるんだ」
普段の彼からは想像もつかないほどの熱量で、トーマスは拳を握りしめた。
「だけどな、辺境伯様は少なくとも俺たち下々の前では立派なお方だ。災害があれば炊き出しの金も出すし、城下の修繕も後回しにしない。そんな辺境伯様がホストを務めるんだ。ここで見栄を張らないと領主としての面子が潰れちまう! 警備の兵は増えるし、他領からの客もごまんと来る。街中の物価が跳ね上がるぞ!」
トーマスは頭を抱えるような仕草をしながらも、その顔はどこか誇らしげだった。
辺境伯は下々からの人望が厚い。その領主の晴れ舞台となれば、平民たちも全力で盛り上げようとするのだろう。
だが、俺の頭の中に浮かんだのは、全く別のことだった。
王と、七大貴族。
それはつまり、この国で最も強い魔法を持ち、二百年間、平民から肉を奪って支配し続けてきた権力の頂点だ。
この歪んだ階級社会の頂点にいる者たちが、全員一箇所に集まる。
俺は無意識のうちに、前掛けの端を強く握りしめていた。
いつか、力を蓄えてから、奴らの懐に飛び込んでやろうと思っていた。
だが、向こうから勝手にやって来てくれるというのだ。
しかも、すべての貴族が一堂に会する場に。
もちろん、俺のような一介の食堂の雇われ料理人が、王族や大貴族の顔を拝むことなど一生かかっても無理な話だ。
彼らはあの分厚い城壁の向こう側、贅を尽くした広間で会議をし、きらびやかな晩餐会を楽しむのだろう。
街の騒ぎなど、高い窓から見下ろすだけだ。
だが。
『魔法だか権力だか知らねえが、美味い飯で胃袋を掴まれた人間がどれだけ強くなるか、上町の連中に教えてやろうぜ』
ヴァレリウスに宣言した自分の声が、耳の奥で鮮明に蘇る。
もし。
もし、あの贅を尽くした晩餐会に、平民の俺が作った料理を並べることができたら?
いや、馬鹿げた妄想だ。だが、権力の頂点に立つ奴らが俺の味を知った時、いったいどんな顔をするだろうか。
「……テッペイ? どうした、恐い顔をして」
トーマスに声をかけられ、俺はハッと我に返った。
いけない。精肉店の親父が、巨大なスーパーチェーンに一泡吹かせる策を考えていた頃の、あの顔に戻っていた。
「いや……すごい話だなと思って。客がさらに増えるなら、仕込みを思い切り増やさないと駄目ですね」
「ああ、全くだ。明日からラッケルの仕入れを三倍にするぞ! 卵も油もだ!」
トーマスは張り切って厨房の奥へ消えていった。
俺は厨房の小窓から、外を見た。
灰色の空に向かって、威圧的にそびえ立つ鷹の石城。
権力の中心が、すぐそこまで迫っている。
俺の手元には、二百年の支配をひっくり返すかもしれない『真実』と、三十年研ぎ澄ませてきた肉屋の腕がある。
どうにかして、あの分厚い城壁の向こう側へ近づく糸口を見つけなければ。
俺は窓ガラスに映る自分の顔に向かって、深く、鋭く笑いかけた。




