【第44話】肉の真実
夜風が窓を叩き、ランプの火が大きく揺れた。
俺は返事をしなかった。
返事をすれば、今まで当たり前だと思っていたものが、全部ひっくり返る気がした。
それでも、聞かなければならなかった。
「……教えてくれ。魔獣の肉を食い続けた人間に、何が起きるんだ」
俺が低い声で促すと、ヴァレリウスはゆっくりと口を開いた。
「すべては二百年前。この国全体を覆った、未曾有の大飢饉が発端だ」
ヴァレリウスの目は、今ここにはない凄惨な過去の光景を見ているようだった。
「何年も不作が続き、麦は枯れ、川は干上がった。当然のように、領主や上位の貴族たちは城に食料を貯め込み、分厚い壁の向こう側に引きこもった。城壁の外に取り残された平民たちは、文字通り泥を啜り、木の皮を剥いで飢えを凌ぐしかなかった」
そこまでは、元の世界でも歴史の授業で聞いたことがあるような話だ。
だが、この異世界には元の世界には存在しないものがある。
「森の奥に棲む、魔獣だ」
俺の言葉に、老人は重々しく頷いた。
「そうだ。飢えと絶望の極致に追いやられた平民たちは、生きるために森へ入り、それまで気味悪がって手を出さなかった魔獣を狩り始めた。ディッケルや巨大な猪、森に棲む獣じみた魔物までな。何万という人間が、魔獣の恐るべき牙や魔法に怯えながらも、その肉を食って命を繋いだのだ」
そして、数年が経過した。
飢饉がようやく収束に向かい始めた頃、城の壁から下界を見下ろした貴族たちは、ある異変に気づいたのだという。
「死に絶えているはずの平民たちが、やけに屈強になっていた。それだけではない。ちょっとした怪我なら数日で治癒し、重労働にも耐える異常な体力を身につけていたのだ」
「それが、魔獣の肉の効果か」
俺はルーンハルト村の若者たちを思い出した。
俺が作ったディッケルの肉を食い続けた彼らは、明らかに身体つきが変わり、夜の森でも動き回れるほどのスタミナを得ていた。
「そうだ。だが、貴族たちが本当に恐怖したのはそこではない。魔獣の肉を常食し続けた平民たちは、徐々に『魔法への耐性』を獲得し始めていたのだ」
魔法への耐性。
その言葉の重みに、俺は息を呑んだ。
「もちろん、完全に魔法を無効化できたわけではない。だがある時、重税に反発した平民の暴動が起きた。鎮圧に向かった貴族が、見せしめとして群衆に向かって炎の魔法を放った」
ヴァレリウスはカウンターの上に置かれた自分の両手を見つめた。
「それまでは、貴族の炎を受ければ人間は一瞬で黒焦げになり、雷を受ければ心臓が止まって即死した。それが絶対的な力であり、支配の根拠だった。だが、魔獣の肉で変質した平民たちは、違った」
炎を浴びても即死せず、全身に火傷を負いながらも立ち上がった。
雷を撃たれても、手足を痺れさせながら前に進んできたのだ。
「貴族たちはパニックに陥った。平民が魔法で即死しなくなれば、どうなるか。圧倒的な数の暴力で押し返されれば、城の壁などすぐに破られてしまう。自分たちの絶対的な優位性が、たかだか森の獣の肉によって崩れ去ろうとしていたのだ」
そこで貴族たちが取った行動が、「肉食の禁忌」という大嘘だった。
武力で一気に奪えば反乱を招く。だから、彼らは時間をかけた。まずは魔獣肉の狩猟を許可制にし、次に流通と販売を独占した。そして仕上げに、神の教えという体裁を整えたのだ。
「魔獣の肉は魂を穢す不浄の食べ物だ」と教会を通じて国中に広め、肉を食う者を重罪として厳しく罰する法律を作った。
「長い年月をかけて肉の味を忘れさせ、恐怖だけを植え付けた。そうして数世代が過ぎる頃には、平民から魔法耐性は完全に失われ、再び貴族の炎に怯えるだけのひ弱な存在に戻った。それが、この国における肉食禁忌の真実だ」
ヴァレリウスの語りが終わり、店内には再び重い静寂が降りた。
俺はカウンターの上に視線を落としたまま、頭の中で情報を整理していた。
理屈は通る。通るどころか、これまでの不可解な現象がすべて綺麗に説明できてしまう。
なぜ国は、これほど美味くて力になる魔獣の肉を「不浄」として平民に禁じたのか。
そしてなぜ、上町の貴族たちだけが裏でコソコソとその肉を独占しているのか。
「……つまり、国を支配する貴族どもは」
俺は顔を上げ、静かにヴァレリウスを見た。
「平民から牙を抜き、魔法という暴力で永遠に支配し続けるために、肉を奪った。生物として弱体化させておくために、美味い飯を食う権利を取り上げたってことか」
「その通りだ」
ヴァレリウスは重々しく頷いた。
「そして、その特権階級の旨味を忘れられず、上町の連中は今も自分たちだけで魔獣の肉を食い、力を蓄えている。私自身も、かつてはその恩恵に預かっていた側の人間だ。恨んでもらって構わない」
俺は大きく息を吐き出し、乱暴に頭を掻いた。
怒りがないと言えば嘘になる。
領主の気まぐれな魔法に怯え、味気ないパン粥と酸っぱい野菜だけで飢えを凌いでいる下町の連中や、ルーンハルト村の農民たちの顔が浮かんだ。
だが、それ以上に俺の胸を占めていたのは、ある種の『高揚感』だった。
「恨む?なんで俺があんたを恨むんだよ」
俺はニヤリと口角を上げた。
「むしろ感謝するぜ、ヴァレリウスさん。あんたのおかげで、俺のやっている商売が『ただの飯屋』じゃ済まないってことが、はっきりわかったからな」
「……何?」
ヴァレリウスが怪訝そうな顔をした。
俺はルーンハルト村で、解体を手伝うユーリたち若い衆に、魔獣の肉を使った賄いを食わせている。
俺はただ体力をつけさせるつもりだったが、偶然にも彼らは、国を揺るがすほどの力を蓄え始めていたことになる。
もし、このまま肉を食い続けて、村人全員が二百年前の平民たちのように「魔法への耐性」を取り戻したとしたら。
「二百年かけて作った支配のシステムだ。俺が肉を焼いたくらいで、すぐにひっくり返せるとは思ってねえよ。教会や商会だって黙っちゃいないだろう」
俺はカウンター越しに身を乗り出した。
「だが、奴らが恐れて必死に隠してきたものが手元にあるなら……俺たちにとって、最大の武器になる。だったら俺は、もっと美味い肉を焼いて、もっとたくさんの奴らに食わせてやる。魔法だか権力だか知らねえが、美味い飯で胃袋を掴まれた人間がどれだけ強くなるか、上町の連中に教えてやろうぜ」
俺の言葉を聞いたヴァレリウスは、一瞬だけ目を丸くし、やがて腹の底から湧き上がるような低い声で笑い始めた。
「……ふっ、くっくく……はははは!これは痛快だ。貴族たちが必死に守ってきた支配の要が、一人の肉屋の手によってひっくり返されようとしているとはな!」
老人の笑い声が、客のいない店内に響き渡る。
俺はこの日、この世界の真実を知った。
そして同時に、俺の焼く一枚の肉が、この国を根底から揺るがす強力な武器になることを確信したのだった。




