【第43話】没落貴族
更新が遅れて申し訳ないです。
静寂に包まれた店内で、老人はゆっくりと目元を拭った。
かすかに震えていた肩は、今はもう落ち着いている。空になった皿を見つめる目は、どこか遠い昔の景色を探しているようだった。
「……美味かった。本当に」
しわがれた声が、夜の空気に溶けるように響いた。
感情を押し殺したような、それでいて深い安堵を滲ませたその一言に、俺は少しだけ警戒を解いた。
「驚いたろう。初対面の男が、賄いの肉を食って突然泣き出したんだ」
「……驚きましたよ。だが、それ以上に気になった」
俺はカウンター越しに腕を組んだ。
蜂蜜煮の強烈な甘じょっぱい匂いは、まだ店内に漂っている。二階で寝ているトーマスが起きてこないのは幸いだったが、いつまでもこのまま長居させるわけにはいかない。
「あんた、ただの爺さんじゃないな。匂いを嗅いだだけで、鍋の中身が『肉』だと一発で言い当てた」
老人は空の皿を見た。
「匂いだけじゃない。私は毎日、カウンターの隅でお前の手元を見ていた」
老人はかすかに笑った。自嘲気味な、ひどく乾いた笑いだった。
「お前はただの野菜を刻む時でさえ、刃の入れ方がおかしかった。まるで不要な筋を引き、見えない脂を削ぎ落とすような手つきだ。あれは普通の料理人の動きじゃない。何万回と肉と向き合い、命を捌いてきた人間に染み付いた癖だ。お前、ただの料理人ではないな。かつて『肉屋』だったのだろう」
俺は息を呑んだ。まさか、調理中の手つきだけでそこまで見抜かれるとは思っていなかった。
老人はまっすぐに俺の目を見た。
「それに、あの味だ。濃厚な脂の甘み、獣の臭みを完璧に消し去る香草の使い方、そして肉そのものの弾力。あれは野菜の代用品なんかじゃない。正真正銘の肉だ。あの噛み応え……ディッケルか。いや、近い別種か」
背筋に冷たい汗が伝った。
この国において、肉食は最大の禁忌だ。とりわけ魔獣の肉を口にしたと知られれば、重い罪に問われても文句は言えない。俺は無意識のうちに、腰に差した包丁の柄に手を伸ばしかけた。
「安心しろ。誰かに言いふらすつもりはない」
老人は両手を軽く上げて、敵意がないことを示した。
その所作には、粗末な身なりに似合わない奇妙な気品があった。
「昔の私は、肉を食っていた」
老人は再び、空の皿に目を落とした。
「いや。食っていたのではない。食える側にいた。私には、お前を告発する権利も力もない。私はかつて、この国の貴族だった男だ。名をヴァレリウスという」
「貴族?」
俺は思わず声を上げた。
目の前のヴァレリウスと名乗った老人は、擦り切れた地味な外套を着ている。手は荒れており、過酷な生活の苦労が刻み込まれている。とてもじゃないが、上町でふんぞり返って馬車に乗っている連中と同じ身分には見えない。
「没落した、という言葉が正確だな。派閥の権力争いに敗れ、領地を奪われ、今はしがない平民として日陰を歩く身だ。だが、かつては上町の奥深く、分厚い壁の向こう側で暮らしていた」
ヴァレリウスはカウンターの上で、しわだらけの両手を組んだ。
「貴族だけが、だ。だから、知っているのだ。肉の味を。そして、肉というものが持つ『本当の価値』をな」
俺の頭の中で、昼間にトーマスの店で兵士たちが話していた噂が蘇った。
夜な夜な上町の屋敷へ運び込まれる、厳重に布が被せられた怪しい荷車。門番が嗅いだという、ひどく錆びた鉄のような匂い。
もしあれが、解体された魔獣の血の匂いだとしたら。
「あんたが本当に元貴族だったなら、教えてくれ。城の連中は、裏で肉を食ってるのか?禁忌だ不浄だと平民に押し付けておきながら、自分たちだけは隠れて魔獣の肉を食っているってことか?」
俺の問いに、ヴァレリウスはゆっくりと首を横に振った。
「半分正解で、半分間違っている。彼らは単に隠れて食っているのではない。肉という存在そのものを、自分たちだけの特権として『独占している』のだ」
「独占?どういう意味だ。美味いものを自分たちだけで楽しむために、わざわざ国中に肉は不浄だなんて大がかりな嘘を広めたっていうのか?」
いくらなんでも理屈が合わない。贅沢品として扱うなら、平民から重税として肉を搾り取ればいいだけだ。特権階級が美味いものを独り占めするのは元の世界でもよくある話だが、わざわざ国を挙げて禁忌にまで仕立て上げ、肉の存在そのものを歴史から消そうとする理由がない。
「美味いから、ではない」
ヴァレリウスの声が一段低くなった。
「お前は、魔獣の肉を食い続けて、自分の体に何か決定的な変化を感じていないか?」
心臓が大きく跳ねた。
疲れにくくなった体。以前よりはっきりと見える夜の森。何より、痩せこけて鍬を振るうのもやっとだったルーンハルト村の若者たちの姿が脳裏をよぎった。あきらかに身体能力が跳ね上がっていた。彼らはゴブリンの群れを力で押し返し、恐れを知らずに武器を振るっていたのだ。
「……力が、強くなる。体力も、傷の治りも異常に早くなる」
俺が絞り出すように答えると、ヴァレリウスは深く頷いた。
「そうだ。魔獣の肉には、人間の身体機能を劇的に底上げする力がある」
ヴァレリウスの目には、底知れない恐怖と、消えることのない後悔のような複雑な感情が渦巻いていた。
「だが、ただ身体が強くなるだけなら、あれほど徹底して歴史から消し去る必要はない。兵士に食わせれば屈強な軍隊ができるのだからな。だが、そうはしなかった。いや、できなかったのだ」
ヴァレリウスは薄暗いランプの火を見つめながら、静かに言葉を継いだ。
「肉食の禁忌は、神の教えでも不浄でもない。貴族が己の権力を永遠のものにするためだけに作り上げた、最も醜く、最も残酷な『政治』なのだ。魔獣の肉を常食した人間に何が起きるか……お前は、知りたいか?」
夜風が窓を叩き、ランプの火が大きく揺れた。
俺は返事をしなかった。
返事をすれば、今まで当たり前だと思っていたものが、全部ひっくり返る気がした。
それでも、聞かなければならなかった。




