【第42話】老人と蜂蜜煮
トーマスの厨房を借りて始めた俺の「情報収集」は、思いのほか順調に進んでいた。
『香ばし焼き野菜の白ソースがけ』の威力は絶大だった。
酸味とコクのある特製マヨネーズソースは、単調な塩味と酸っぱいパンばかり食わされている兵士や下級役人たちにとって、まさに劇薬のようなものだったらしい。
昼時になると、トーマスの店は狭い店内からあふれるほどの客でごった返すようになった。
フライパンを振りながら、俺は客たちの会話に耳を澄ませる。
美味い飯を食って気が緩んだ男たちは、聞かれてもいないのに城の内部事情をペラペラとこぼしてくれた。
「東の山の警戒が厳しくなって、上町の連中もピリピリしてるな」
「ああ。だが、あいつらはいいよな。俺たちには味気ない黒麦の粥ばかり食わせておいて、自分たちは壁の向こうで美味いもんを食ってるんだからよ」
「……聞いたか? 最近、上町の屋敷に夜な夜な怪しい荷車が入っていくらしいぜ」
手を動かしながら、俺はその会話に意識を集中させた。
「怪しい荷車?」
「ああ。厳重に布が被せられていて、中身は見えねえ。だが、門番の奴が言ってたんだ。荷車から、ひどく錆びた鉄みたいな匂いがしたって」
「錆びた鉄? 武器でも運び込んでるのか」
「さあな。だが、わざわざ夜中に隠すように運ぶか? それに、護衛の兵士の顔が青ざめていたらしいぜ。まるで呪われた品でも運んでるみたいにな」
兵士たちはそれ以上深くは語らず、皿に残ったソースを黒パンで拭い取って口に放り込んだ。
俺はフライパンの底を焦がさないように火加減を調整しながら、その会話に違和感を覚えていた。
錆びた鉄の匂い。
武具の搬入なら、兵士が怯える必要はない。
肉屋だった俺にはわかる。動物から大量の血を抜いた時、あたりに立ち込めるのは強烈な鉄の匂いだった。
もちろん、血だけではない。濡れた革や、古びた鉄くずの匂いかもしれない。似た匂いはいくつもある。
だが、なぜそれを夜中に隠して上町へ運ぶ必要がある?
(城の中で、一体何が起きてるんだ……?)
考えたところで答えは出ない。
ただ、上の連中が何か気味の悪い隠し事をしているのだけは確かだった。
俺は考えるのをやめ、目の前の注文を捌くことに集中した。
その日の夜。
店を閉めて、トーマスが二階の自室に上がった後。俺は一階の厨房の奥で、こっそりと一つの鍋を火にかけていた。
中身は『ディッケルの蜂蜜煮』だ。
ルーンハルト村を出る時、ユーリと俺の携行食として、ガルドが狩ってきたディッケルの肉を燻製にして少しだけ持ち込んでいたのだ。
生の肉を街に持ち込めば騒ぎになるが、カチカチに乾燥させた干し肉なら、ただの硬い保存食の塊にしか見えない。肉とわかるほどの匂いも残っておらず、城門の兵士もまさか禁忌の獣肉だとは思わなかったのだろう。
俺はそれを昼間から水でゆっくりと戻し、厨房の片隅で蜂蜜と塩、それに地辛を加えてじっくりと煮詰めていた。
醤油も砂糖もないこの世界で、燻製の香りを活かしつつ、噛むたびに甘じょっぱい旨味が滲み出すように工夫した一品だ。
俺にとってはただの「賄い」だが、肉の味を知ってしまったユーリにとっては、これが何よりのご馳走だった。
「……テッペイ、もういいか? そろそろ食えるか?」
厨房の入り口で、ユーリが腹を押さえながら涎を垂らしている。
鍋からは、甘じょっぱい強烈な匂いが立ち昇っていた。
二階の床板が軋む音がした。トーマスがこの匂いに気づかないはずはない。だが、階段を降りて咎めに来る気配はなかった。あの無骨な店主は、俺たちの「訳ありの夜食」を、今はあえて黙認してくれているらしかった。
「まだだ。もう少し煮詰めないと、肉が柔らかくならない。焦るな」
俺が菜箸代わりの木の棒で肉を転がしていると、ふいに、店の扉を控えめに叩く音がした。
ユーリがビクッと肩を揺らす。こんな夜中に客が来るはずはない。
俺は警戒しながら扉を少しだけ開けた。隙間から顔を覗かせた男が、震える声で言った。
「……忘れていた腹の減り方を思い出す匂いだ。窓から漏れたその匂いを辿って、どうしても足が止まってしまってな」
薄暗いランプの光に照らされたその顔には、見覚えがあった。
昼間、時々店に来る客だ。
兵士や職人たちが騒がしく飯をかき込む中、いつも一人だけカウンターの隅に座り、一番安い野菜の煮込みと硬い黒パンだけを黙々と食べて帰っていく初老の男。
身につけている服は仕立てが良いが、袖口や襟元がひどく擦り切れており、長く着古しているのがわかる。
(職人や兵士には見えない。どこか訳ありの老人だな……)
男は、俺が火にかけている鍋を、穴があくほど見つめていた。
その目は、飢えた獣のようにギラギラとしていた。
「すまない、店はもう閉まったんだ。それは、俺たちの賄いで……」
俺は誤魔化そうとした。
肉食がバレれば、衛兵を呼ばれるかもしれない。相手は素性の知れない老人だ。
だが、老人は俺の言葉を遮るように、震える声で言った。
「それは……肉だろう?」
心臓が跳ねた。
ユーリが顔を強張らせて、一歩後ずさる。
言い逃れはできない。だが、強烈な違和感があった。
普通の平民は、肉の匂いなど知らない。いくら強い匂いがしても、「得体の知れない料理だ」と不思議がるだけだ。
それが「肉」だと一発で見抜ける人間など、この下町にいるはずがないのだ。
老人は衛兵を呼ぶ素振りも見せなかった。
ただ、その目にうっすらと涙を浮かべて、鍋を見つめていた。
「安心しろ……誰にも言わん」
老人は、乾いた唇を舐めながら、絞り出すように言った。
「ただ……その匂いが、あまりにも懐かしくてな」
懐かしい。
その言葉で、俺の中で一つの確信が生まれた。
この老人は、ただ知識として肉を知っているわけではない。過去に肉の味を楽しんだ記憶があるのだ。
(……見つけたぞ)
俺の探していた「上町に繋がる情報の糸」が、向こうからカウンターに座ってくれたのだ。
俺は鍋の火を弱めると、戸棚から小皿を取り出した。
照りのある飴色に煮詰まったディッケルの燻製肉を一切れ乗せ、蜂蜜と肉汁が溶け込んだソースをかける。
無言で、老人の前に皿を置いた。
老人は震える手でそれを受け取った。
匙を使わず、手で肉をつまみ、ゆっくりと口に運ぶ。
老人は目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
何度かゆっくりと咀嚼し、やがて、皿を持つ手の甲に一滴だけ涙が落ちた。
「美味い……。昔、あの屋敷で食べたどんなものよりも……ずっと、美味い」
老人はそれ以上声を出さず、ただ静かに肩を震わせていた。
俺とユーリは顔を見合わせた。
この老人が何者なのか、どんな過去を抱えているのか。
そして、この世界における肉食の本当の意味とは何なのか。
すべての答えが、目の前で静かに涙を流す老人の口から語られようとしていた。




