【第41話】未知の香りと白いソース
翌朝、夜明けと共に厨房に入った。
トーマスはすでに起きていて、いつもの巨大な鉄鍋で煮込みを作り始めていた。具材はくず野菜と豆、それに少しばかりの塩だけだ。味見をしなくてもわかる。腹を膨らませるためだけの、単調で素朴な味だ。この世界の下町では、それが当たり前の食事だった。
俺は背負い袋から、昨日市場で買い揃えておいた食材を取り出した。
ラッケル(ジャガイモによく似た芋)、数種類の葉野菜、卵、酢、蜂蜜。そして、小さな瓶に入った木の実の油だ。
瓶をカウンターに置いた瞬間、トーマスの太い腕がピタリと止まった。
「おい、テッペイ」
トーマスの声が低い。無表情な顔に、はっきりと不快感が浮かんでいる。
「なんだ」
「それは油か」
「ああ。ナッツ系の油だ」
トーマスは鼻を鳴らし、手にした木匙を鍋の縁に軽く叩きつけた。
「うちの店は下町の昼飯屋だ。客は懐の寂しい兵士か、日銭で暮らす職人しかいない。油なんて高級品を使った料理を出せば、赤字になるか、誰も買えないほどの値段になる。そんなこともわからんのか」
無理もない反応だ。この世界で植物油や動物油脂は安くない。大量の油を使う揚げ物などは、上町の貴族か豪商のお抱え料理人でもなければ日常的には作れない代物だ。
俺だって、最初からコスト度外視の馬鹿げた真似をするつもりはない。
「心配するな。ドバドバ使うわけじゃない」
俺は油の瓶を軽く振って見せた。
「香り付けと、表面を焼くためのほんの少しだけだ。油は大量に使えば贅沢品だが、少量なら最高の調味料になる。原価は十分に回収できる値段設定にするさ」
トーマスは疑わしげな目を向けたが、それ以上は言わなかった。「材料費は自己負担」という条件の範囲内だからだ。だが、その目は「失敗すればすぐ追い出す」と雄弁に語っていた。
俺は調理を始めた。
まずはソースだ。ボウルに卵黄だけを落とし、酢を加え、塩と少量の蜂蜜を入れる。そこに、油を本当に一滴ずつ垂らしながら、木べらで猛烈な勢いでかき混ぜていく。
前の世界で言うマヨネーズだ。
分離しないよう、慎重に、かつ素早く乳化させる。手首が痛くなるほどの労力だが、やがて液体はもったりとした薄黄色のクリーム状に変わった。
トーマスが横目でその様子を見ている。卵と油と酢が、見たこともないどろりとしたソースに変わるのを見て、明らかに戸惑っていた。
「それは、なんだ」
「特製のソースだ。ただの野菜じゃ腹持ちが悪いからな。こいつでコクと酸味を足してやるんだ」
そう言ってから、トーマスには聞こえないほどの小声で呟く。
(肉が出せないなら、脂身に負けないくらいの満足感をこのソースで作るしかない)
次は具材だ。ラッケルを薄切りにし、葉野菜を一口大にちぎる。
フライパンを火にかけ、ごく少量の油を引く。熱された油がチリチリと音を立て、ナッツ特有の香ばしい匂いが厨房に広がった。そこにラッケルを投入する。
ジュワッという豪快な音が響く。
この「油で焼く音」と「香ばしい匂い」は、煮込みしか作らないトーマスにとって、十分すぎる刺激だったはずだ。彼の喉がゴクリと鳴る音が聞こえた。
表面がこんがりとキツネ色になったところで葉野菜を加え、さっと炒めて火から下ろす。皿に盛り、上から先ほど作ったマヨネーズ風の特製ソースをたっぷりとかけた。
「よし、完成だ。トーマス、よかったら一口食べてみるかい?」
俺は小皿に取り分けた炒め物を差し出した。
トーマスは眉間を寄せたまま、恐る恐る木匙でそれを掬い、口に入れた。
数秒間、男の動きが完全に止まった。
大きく見開かれた目が、皿と俺を交互に見る。
「……なんだ、これは」
トーマスは皿を見下ろした。
「ラッケルが、煮込みとはまるで違う。外は香ばしく、中はほくほくだ。白いソースも……酸っぱいのに、重い。腹に残る」
そこまで言って、トーマスは黙って二口目を口に放り込み、あっという間に小皿を空にした。
「……油は、この香りを出すためだったのか。あの白いソースの濃厚さも……」
「ああ。油は熱を入れると、鼻と腹を同時に掴む匂いになる。そしてソースのコクが、安っぽい野菜を最高のご馳走に変える。これで客の足を止める」
トーマスは大きく息を吐き、自分の煮込み鍋に目を戻した。
「……好きにしろ。ただし、俺の煮込みが売れなくなったら容赦しないからな」
口ではそう言っているが、その横顔には隠しきれない期待が浮かんでいた。
昼時になった。
城門の鐘が鳴ると、職人通りの奥にあるこの店にも、腹を満たす場所を探す兵士や下働きの役人たちがぽつぽつと現れ始めた。
彼らは皆、安い昼飯で済ませようとやって来る常連だ。今日もいつもの薄い煮込みと黒パンを頼むつもりで扉を開けたはずだ。
だが、店に入った瞬間、全員が足を止めた。
「おい……なんだ、この匂いは」
「厨房からだ。何かを焼いてるみたいだが……こんな強い匂い、嗅いだことがないぞ」
「ああ。ただの煮込みじゃない。腹の虫が狂ったように鳴きやがる……」
俺はカウンターの奥から声を張り上げた。
「いらっしゃい! 今日はいつもの煮込みの他に、新メニューがあるぞ! 『香ばし焼き野菜の白ソースがけ』だ! 煮込みとセットで銅貨三枚! 単品なら銅貨二枚だ!」
銅貨二枚。トーマスの煮込みが黒パン付きで銅貨二枚だから、安い給料の兵士たちにとっても十分に手の届く値段だ。
卵一つで十皿分のソースが作れるし、油も一皿に使うのはソース用の数滴と、焼き付けに薄く引く分だけ。ラッケルと葉野菜は底値だ。単品銅貨二枚でも、十分に利益は残る計算だった。
少量でも、熱した油は下町の煮込みにはない香ばしさを放つ。それでも、見慣れない白いソースがかかった料理の前に、兵士たちは最初だけ財布の紐を固くした。
「野菜だけで銅貨二枚かよ」
「だが、この匂いは反則だろ。……おい、単品で一皿だけ試すか」
渋々と銅貨を出した客の前に、ユーリが不器用ながらも必死に皿を運ぶ。
一口食べた客の反応は、トーマスと全く同じだった。
最初は未知の味に目を見開き、次いで夢中になって皿をかき込む。酸味とコクの絶妙なバランスは、普段は味気ない煮込みしか食べていない彼らの胃袋を、しっかりと掴んでいた。
「……もう一皿」
「俺は煮込みとセットで頼む!」
最初の一人が陥落すると、後の注文は次々と飛び込んできた。俺は休む間もなくフライパンを振り続ける。
「美味え……なんだこれ、本当に野菜だけか!?」
「この白いソースだけで、黒パンが食えるぞ!」
狭い店内はあっという間に満席になった。強烈な匂いに釣られて通りから覗き込む者や、先に食い終わった連中から噂を聞きつけて交代でやってきた兵士たちが、次々と店に押し寄せてくる。
やがて外には、立ち食いでもいいからと待つ客の列ができ始めた。
ピークの忙しさを捌きながら、俺はフライパンを振りつつ客たちの会話に耳を澄ませていた。
「いやあ、しかしこの美味さは城の食堂でも味わえないな」
「全くだ。上町の貴族様は毎日こんな美味いもんを食ってるんだろうか」
「どうだかな。最近は上の連中もカリカリしてるらしいぞ。東の山の『竜の巣』が騒がしいせいで、辺境伯様が防衛費の捻出に頭を抱えてるって噂だ」
「ああ、うちの部隊でも見回りが強化された。そのくせ給金は上がらないんだからやってられないぜ」
なるほど。昨日トーマスが言っていた「竜の巣」の活発化は、城下町の経済や権力構造にもすでに重い影を落としているらしい。
防衛費の捻出。それはつまり、金が動くということだ。金が動く場所には、必ず利権と情報が集まる。そして不満も溜まる。
(焦る必要はない。まずはこの下町で、俺の料理の評判を完全に定着させる)
美味い飯は、人の口を軽くする。
腹を満たした兵士や役人たちは、酒場でもないのに、城で聞いた噂や日々の不満をぽろぽろとこぼしていった。俺はそれを記憶の隅にファイリングしていく。
俺の城下町での戦いは、最高の滑り出しを見せていた。
だが、まだこれは序の口だ。この肉屋の付け合わせの技術で彼らの胃袋を掴み、まずはこの下町で、上町へと繋がる情報を少しでも多く集めていく。




