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【第40話】城下町


丘を越えた瞬間、ユーリが足を止めた。


「テッペイ……あれが」


 俺も言葉を失った。


 眼下に、石造りの街が広がっていた。市場町ハルテンとは桁が違う。

 分厚い城壁が街をぐるりと囲んでいる。その壁の向こうに、灰色の石屋根がいくつも頭を覗かせていた。中央にはひときわ高い塔がそびえ、頂に鷹の紋章を描いた旗が風にはためいている。

 そして、街の背後にそびえる山脈。青黒い稜線が空を切り裂くように連なり、頂は雲に隠れていた。


 ファルケンシュタイン。鷹の石城。

 バイエル辺境伯の居城にして、この辺境の中心地だ。


「でかいな」


 俺が呟くと、ユーリは無言で頷いた。ハルテンでさえ圧倒されていたこいつが、今は口も利けないほど驚いている。


 坂を下り、城門に着いた時には、日が傾き始めていた。槍を持った兵士が二人、退屈そうに立っていた。


「用件は」


「職人通りのトーマスという男の食堂で働くことになっている。紹介状がある」


 兵士は俺とユーリを上から下まで眺め、背負い袋を一瞥した。


「荷を開けろ」


 言われるまま袋を開けた。着替え、包丁の巻き布、そして手回しの肉挽き器。兵士は包丁を見て眉を上げた後、見たこともない鉄の道具に槍の穂先を向けた。


「料理人なのは分かったが……こっちの妙な鉄くずは何だ」


「ああ、これは肉を……いや、色々な野菜を細かく砕くための道具だ」


 危うく口が滑りかけ、俺は咄嗟に言い直した。兵士は理解できない顔をしたが、危険な武器ではないと見ると、すぐに興味を失った。


「まあいい、通れ」

 門をくぐると、石畳の通りが続いていた。ハルテンの土の道とは違う。靴の音が硬く響く。


 通りを歩きながら、俺は目を動かし続けた。

 まず目についたのは、街の構造だった。城壁の内側は、はっきりと二つに分かれている。石畳の大通りを境にして、城に近い北側は石造りの立派な建物が並び、通りには馬車が行き交い、使用人らしき身なりの整った人間が歩いている。

 南側は違った。木造の家が密集し、道は狭く、洗濯物が窓から垂れ下がっている。子供たちは裸足で走り回り、老人は日陰で黙って座っている。


 上町と下町。

 貴族と平民の世界が、大通り一本で隔てられていた。


 ハルテンにも貧富の差はあった。だが、こうまで露骨に線引きされているのを見ると、腹の底がざわつく。


「テッペイ、こっちだ」


 ユーリが通りの看板を指差した。彼に読める文字は少ないが、マルタの手紙に描かれていた職人通りの印と同じだった。初めての街では、二人の目があった方がいい。

 南側の路地をいくつか曲がり、職人通りと呼ばれる一角に出た。鍛冶屋、革工房、仕立て屋が軒を連ねている。その奥に、手紙にあった『煙突の曲がった』という目印通りの、看板も出していない小さな食堂があった。


 木の扉を開けると、狭い店内に男が一人、カウンターの向こうで翌日の仕込みらしい鍋を見つめていた。

 がっしりした体格。マルタと同じ赤毛だが、短く刈り込んでいる。顔は無表情で、扉が開いたのに振り返りもしない。


「トーマスか」


 俺が声をかけると、男はようやくこちらを見た。暗い目だった。客を歓迎する目じゃない。


「客なら、今は昼しかやっていない」


「客じゃない。マルタの紹介で来た」


 俺は懐から紹介状を取り出した。

 トーマスは鍋から手を離し、無言で羊皮紙を受け取った。ゆっくりと目を通す。読み終えても、表情は変わらない。


「……妹が、世話になっているらしいな」


 それだけ言って、紹介状を畳んで返した。


「厨房は狭い。包丁は三本しか置く場所がない。寝泊まりは二階の物置だ。文句があるなら他を探せ」


「文句はない。ありがたい」


 トーマスは鼻を鳴らし、カウンターの奥を顎でしゃくった。


「仕込みは日の出前だ。間に合わなければ、翌日はない」


 ユーリが俺の袖を引いて小声で言った。


「……愛想がないって、マルタが言ってた通りだな」


「ああ。だが、追い出されなかった。それで十分だ」


 荷を二階の物置に置くと、すぐに厨房へ戻った。トーマスは何も言わなかったが、俺が根菜の皮を剥き始めると、黙って次の芋を寄越した。ユーリも水汲みと薪割りに回った。

 仕込みを手伝いながら、厨房の道具と食材を頭に入れた。鍋は三つ。包丁は二本、どちらも刃が丸くなっている。火は薪で、竈は一つだけ。食材は根菜、黒麦粉、塩、干し豆。肉はない。

 一人で回す昼飯屋としては、必要最低限が揃っている。だが、それ以上のものは何もなかった。


 日が暮れた。物置の窓から東を見ると、山脈のシルエットが夕焼けの中に黒く浮かんでいた。

 あの山の向こうに、竜がいる。


 初日の夜。

 店を閉めたトーマスが、黒パンと根菜の煮込みを俺たちの前に置いた。自分の分も同じものを食べている。

 質素だが、味は悪くない。根菜の火の通りは均一で、塩加減も的確。マルタが「腕は確か」と書いた通り、基本はしっかりしている。だが、この煮込みと黒パン以外のものを出す気配がない。


「トーマス、この店は昼だけなのか」


「ああ。職人相手の昼飯屋だ。朝は仕込み、夜は閉める。一人で回すには、それが限界だ」


「客は何人くらい来る」


「日によるが、十人から十五人。多い日で二十人。少ない日もある」


 俺は店の中を見回した。席は八つ。回転させても一日の売上はたかが知れている。だが、立地は悪くない。職人通りは人通りがある。


「城の人間は来るか」


 トーマスの木匙が止まった。


「上町の人間はこんな店には来ない。あっちには料理人を抱えた屋敷がいくつもある。下町の食い物には見向きもしない」


「騎士は? 兵士は?」


「たまに来る。城門の番兵が昼飯を食いに来ることがある。だが、金を落とす量は知れている」


 俺は頷いた。まずは客層を把握する。上町と下町の線引き。権力に近い人間がどこで何を食っているか。それを知るのが最初の仕事だ。


「トーマス。もう一つ聞いていいか。東の山は、何だ」


 窓の外を指した。トーマスの表情が、わずかに強張った。


「ドラッヘンホルスト。竜の巣と呼ばれている。あの山脈の向こうに、竜が棲んでいるという話だ。実際に見た人間はほとんどいないが、騎士団が定期的に偵察に行っている」


「最近、どうだ」


「……よく鳴る。地面が揺れることもある。兵士たちが落ち着かない顔をしているのを見かけるようになった。辺境伯が防衛費の捻出に苦しんでいるという噂もある」


 防衛費。それは金が要るということだ。

 辺境伯は七大貴族の中で最も貧しい。東の国境、魔獣の森、そして竜の巣。三方からの脅威を一手に引き受けながら、金が足りない。


 なら、辺境伯が本当に欲しているのは何だ。

 商会からの上納金だけか。それとも、もっと根本的なもの――兵を養い、民を食わせ、防衛を維持するための力か。


 食わせる力。


 俺は持っていた木の匙を置き、まっすぐに男を見た。


「トーマス。明日から、俺に一品作らせてくれないか」


 唐突な提案に、トーマスは煮込みを口に運ぶ手を止めた。


「……客の口に合わなければ、捨てることになるぞ。材料費は誰が持つ」


「俺が払う。もし売れたら、売上は折半でいい」


 トーマスは俺の顔をじっと見た後、短く鼻を鳴らした。


「好きにしろ。ただし、俺の邪魔はするな」


 それだけ言って、再び黒パンをかじり始めた。愛想はないが、商売人としての計算はできる男だ。


「テッペイ、何か考えてる顔だな」


 やり取りを聞いていたユーリが、煮込みを啜りながら聞いてきた。


「ああ。まずは匂いで足を止めさせる。誰が食いつくかを見るんだ」


「どんな料理を出すんだ。……ここには肉なんてないぞ」


 俺は窓の外を見た。山脈の向こうに竜がいて、城壁の内側には安い昼飯で腹を満たす兵士がいて、上町には金と権力を握った貴族がいる。


「肉は出さない。借り物の店で、主人の首を飛ばすような真似はしないさ」


「じゃあ、トーマスと同じ煮込みか?」


「いや。ハルテンでマルタの店に出したようなやつだ。少量の油を使った炒め物に、蜂蜜や香草を使った特製の調味料を合わせる。ここの連中が食ったことのない味で勝負する」


 ユーリが少しだけ不安そうに俺を見た。


「肉がなくても、城の人間が釣れるのか?」


「ああ。腹を空かせた人間は、本当に美味い匂いと味には勝てない」


 俺は口角を上げた。


「肉屋のおっさんは、肉を美味く食わせるための付け合わせのプロでもあるんだ。まずはそれで、誰が釣れるか試してやる」


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