【第39話】空の保管庫
「全部空っぽだ」
石造りの保管庫の中で、俺はため息をついた。
冬を越すために少しずつ備蓄していた麦の袋は、床の隅に二つ残っているだけ。塩の木樽も底が見えている。豆の袋はひとつも残っていない。
先日の徴税官ブルクハルトによる強引な『物納』。銀貨にして三十枚分もの不足を、やつらは村の食料で埋め合わせた。麦一袋を銅貨十枚で換算された。市場ならその倍以上の値がつく。
「ハンスたちが育てた根菜がまだ畑にある。それに、ディッケルの干し肉も少しだが隠してあった」
後ろから声をかけてきたのはベルントだった。顔色は悪いが、その目には以前のような諦めはない。
村人たちの前で「もう黙って払わない」と宣言したあの朝から、村長の背筋は少しだけ伸びたように見える。
「とりあえず、当面はガルドの狩りに頼るしかないな」
俺が言うと、背後の入り口に立っていた銀色の巨狼が、任せろとばかりに低く鼻を鳴らした。
最近のガルドは、朝早くから森へ入り、夕方にはヴァルトフーンやディッケルを何頭も引きずって帰ってくる。言葉こそ通じないが、村の窮状を理解しているのは間違いない。
「お前には苦労をかけるな、ガルド」
頭を撫でてやると、ガルドは気持ちよさそうに目を細め、太い尻尾をゆっくりと振った。
だが、狩りと畑の残りだけで二百人近い村人を何ヶ月も食わせるのは無理だ。再来月には冬が来る。そして三ヶ月後には、あのブルクハルトが再び『監査』という名目で村にやって来る。
時間がなかった。
「ベルント。俺は――」
言いかけた時だった。
「村長! テッペイさん!」
広場の方から、若い村人の切羽詰まった声が響いた。
また兵士か。俺は顔をこわばらせ、ベルントと顔を見合わせて保管庫を飛び出した。
広場に駆けつけると、そこには兵士ではなく、見慣れた荷馬車が止まっていた。二頭立ての頑丈な馬車。御者台から飛び降りたのは、埃まみれのゲルハルトだった。
「ゲルハルト! どうした、仕入れの日にはまだ早いぞ」
俺が駆け寄ると、ゲルハルトは顔の汗を粗い布で拭いながら、荷台の幌を勢いよくまくり上げた。
「俺じゃねえ。こいつらを大急ぎで運んでくれって頼まれたんだ」
荷台を見て、俺は言葉を失った。
麦の袋が山のように積まれている。それだけではない。塩の入った木樽、干し魚、日持ちのする豆の袋、乾燥果実まである。
馬車一台分、荷台が軋むほどの物資だった。
「これは……いったいどういうことだ」
ベルントが荷台の前で立ち尽くした。
ゲルハルトは懐から封筒を取り出し、俺に差し出した。
「マルタからだ。それと、ビアスとレンツのおっさんたちも、自分の店の備蓄から半分以上を持ってきた」
俺は封筒を受け取り、中に入っていた羊皮紙を開いた。
太く、几帳面な字が並んでいる。
『ルーンハルトが商会に目をつけられ、食料を奪われたと聞いた。
勘違いするな。これは施しじゃない。
あんたの酒で、あたしたちの店は生き返った。客が戻り、借金も返せた。
今度はこっちの番だ。
村が潰れたら、あの麦火酒が飲めなくなるからな。まずはこれを食って、生き延びろ。
――銅の杯亭 マルタ(ビアスとレンツも同席)』
読み終えた羊皮紙を畳もうとしたが、指がうまく動かなかった。
目頭が熱くなるのを誤魔化すように、大きく息を吐く。
「ビアスの奴……あんだけ商会にビビってたくせに」
「あのおっさん、麦の袋を担いで一番に走ってきたぜ」と、ゲルハルトが笑う。「商会の見張りがいる市場街の裏口から、夜明け前に荷を積み込んだんだ」
「ゲルハルト、運んでくれて恩に着る。あんたも危険だっただろうに」
「馬鹿言うな。俺だって村のミードとマヨネーズで商売させてもらってるんだ。ここで村に潰れられちゃ、俺の懐も冷え込んじまう」
ゲルハルトは照れ隠しのように肩をすくめたが、その手には商会の目を掻い潜るために馬車を飛ばしてきた手綱の跡がくっきりと残っていた。
物資の荷下ろしが始まると、沈んでいた村の空気が一気に活気づいた。
エルストたち移住者も、ハンスたち古株も、皆が協力して麦の袋を保管庫へと運んでいく。子供たちも小さな豆の袋を抱えて走っている。
「これで、しばらくは持ちこたえられる……」
震える声で呟いたベルントの肩を、俺は力強く叩いた。
「ああ。その間に、冬を越す手を考える。マルタたちの恩も、必ず返す」
だが、当面の危機は去っても、根本的な解決にはなっていない。
商会を動かしている力。その先にいる辺境伯。
三ヶ月後にブルクハルトが来れば、また同じことの繰り返しになる。
夜。
荷下ろしを終え、ゲルハルトが市場街へ戻った後。俺とベルントは村長の家の土間に座り、小さなランプの明かりを囲んでいた。
ユーリが淹れてくれた温かいハーブ茶の湯気が、土間の冷たい空気に溶けていく。
「ベルント。俺は、城下町へ行く」
湯呑みを置き、俺は単刀直入に切り出した。
ベルントは驚いたように顔を上げた。
「城下町……バイエル辺境伯のお膝元か。だが、なぜだ」
「ゲルハルトの話を聞いて、確信したんだ。商会と戦うにしても、俺たちは敵のことを知らなさすぎる」
俺は前のめりになり、机の上で指を組んだ。
「辺境伯が商会の横暴を知っているのか、知らないのか。それだけでも確かめたい」
ベルントは黙って俺の言葉を聞いている。
「それを知るためには、権力の中心を見るしかない。役人がどう動き、城の人間が何を求め、何を食べ、誰から物を買っているのか。現場を見なければ、打つ手はわからない」
前の世界では、敵の形も知らずに潰された。
同じ轍は踏まない。
「城下町に入り込み、辺境伯に繋がる糸口を見つける。商会を通さず、村の価値を直接城に届けるルートを開拓するんだ」
ベルントは深く息を吐き、机の上の木目をじっと見つめた。
「危険だぞ、テッペイ。あそこは市場街とは違う。貴族の法が全てを決める場所だ。我々のような平民が、うかつに権力に近づけば消される」
「わかっている。だから、ただの料理人として行く」
俺は懐から、昼間マルタから受け取った封筒の『二枚目』を取り出した。
「マルタの手紙には、続きがあったんだ」
物資の礼に対する返事を遮るように、二枚目にはこう書かれていた。
『あんたがもし、これ以上商会に目をつけられずに商売の幅を広げたいなら、城下町に行け。
あそこなら商会の力も及ばない。
城下町の職人通りで「トーマス」という男が食堂をやっている。あたしの実の兄貴だ。
あたしとは違って愛想のない堅物だが、腕は確かだ。この手紙を見せれば、しばらく厨房の隅くらいは貸してくれるだろう』
紹介状だった。
マルタが俺の考えを見抜いていたわけじゃない。あの女も、商会の支配から逃れる道をずっと考えていたのだろう。その答えの一つが、城下町だった。
「マルタの兄さんの店で働きながら、城下町の事情を探る。城の役人や、権力に近い人間が客として来るかもしれない。そこから辺境伯に届く糸口を探す」
ベルントはしばらく目を閉じていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「わかった。村のことは儂に任せろ。帳面はしっかりつけておく。ブルクハルトが次に来た時、一文たりとも誤魔化させない証拠を作る」
「頼む。それと――ユーリを連れて行く」
土間の隅で静かに話を聞いていたユーリが、ビクッと肩を揺らした。
「俺……か?」
「ああ。俺一人でいきなり厨房に入るより、使い慣れた助手がいた方が働きやすい。それに、ユーリなら俺の料理の段取りを一番わかっている。それと――今回は一人で何とかしようとは思っていない。お前の力を借りたい」
ユーリの翡翠色の目が、一瞬揺れてから、据わった。
「わかった。俺にできることは全部やる」
翌朝。
村の広場には、旅支度を整えた俺とユーリの姿があった。
背負い袋には、最低限の着替えと、数本の使い慣れた包丁。そして、クラウスが作ってくれた手回しの肉挽き器。目立たずに済ませるつもりはなかった。料理人として価値を示すには、俺にしか作れない料理が要る。
「グルルゥ……」
足元では、ガルドが喉の奥で低く不満げな声を鳴らしていた。
自分も連れて行けと、鼻先で俺の膝を小突いてくる。
「駄目だぞ、ガルド。城下町にお前みたいなでかい狼を連れて行ったら、大騒ぎになる。それに、お前がいなきゃ村の狩りが回らないだろう?」
「クゥーン……」
ガルドは納得いかない様子で、太い尻尾をパタンパタンと地面に叩きつけた。
ユーリがしゃがみ込み、ガルドの首筋を優しく撫でる。
「ガルド、いい子にしてろよ。絶対帰ってくるからな」
「テッペイに教わった通りに焼いてあげるから、待ってなさいね」
ニーナが横からしゃがみ込み、ガルドの背中を優しく撫でた。
「しっかり留守番頼んだぞ」
俺が言うと、ガルドはついに諦めたように、長く、響き渡るような声で遠吠えをした。
それはまるで、俺たちの無事を祈るエールのようにも聞こえた。
「気をつけてな、テッペイ! ユーリも!」
ベルントやニーナ、クラウスたち村人の声援を背に受けながら、俺とユーリは歩き出した。
懐の紹介状が、歩くたびに胸を叩いた。




