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【第38話】堪忍袋の緒

保管庫の扉を開けた。


 棚がほとんど空だった。昨日まで麦の袋が積まれていた場所に、埃だけが残っている。ピクルスの瓶が並んでいた棚も、チーズを置いていた台も、何もなかった。


 ニーナが入り口に立って、動かなかった。


「テッペイ。今朝の炊き出し分は確保してある。でも、明日から全員に麦を配るのは無理よ。畑の野菜だけじゃ、二百人の腹は持たない」


 その通りだった。


 二百人分の食料を、あの男は帳面一枚で持っていった。保管庫の麦のほとんど。塩漬けの瓶も乾燥根菜もピクルスもチーズも。市場価格の三分の一で査定して、不足分の物納だと言い張った。


 朝の広場に、人が集まっていた。いつもなら畑に出る時間だ。誰も動いていない。


 エルストがアンネの肩を抱いていた。アンネの目が虚ろだった。ハイデ村で飢えて死にかけた一家が、ここに来てようやく人並みに食えるようになった。それがまた、食料を奪われた。せっかく助かったと思ったのに、また同じところに戻された。あの目は、そういう目だった。


 ユーリが来た。


「テッペイ。ベルントが」


「知ってる」


 ベルントの家の前に、村の主だった者が集まっていた。ハンス、クラウス、フリッツ、エルスト。ヒルダもいる。


 ベルントは家から出てこなかった。


 しばらく待った。日が高くなり始めた頃、ベルントが扉を押し開けた。


 顔が変わっていた。


 昨夜の赤い目はそのままだったが、それ以上に、表情が別人だった。六十年間この村で暮らしてきた老人の穏やかさが、一晩で消えていた。


「話がある」


 ベルントの声が広場に響いた。低く、硬い声だった。


 村人たちが自然と集まってきた。子供をニーナが建物の中に連れていく。ミーナが「なんで」と聞いていたが、ニーナは何も答えなかった。


「昨日、徴税官が来た。村の金庫と食料のほとんどを持っていった。事実だけ言う。金庫の銀貨百枚。保管庫の麦も、塩漬けも、乾燥根菜も、ピクルスも、チーズも。全部だ」


 声がかすれた。だが、止まらなかった。


「六十年、儂はこの村を守ってきたつもりだった。税は毎年払った。文句も言わなかった。国が兵を送らなくても、領主が顔を見せなくても、黙って生きてきた。それが正しいと思っていた」


 ベルントの拳が震えていた。


「間違いだった」


 広場が静まり返った。


「黙って払えば、もっと取られる。声を上げなければ、もっと踏まれる。儂は六十年間、間違えていた」


 ベルントの目から涙がこぼれた。だが、声は震えなかった。


「次に来た時は、同じようにはさせん」


 ユーリが拳を握りしめていた。クラウスの歯が鳴っている。エルストは目を伏せていた。怒りではない。恐怖だ。


 俺は何も言わなかった。


 ベルントの言葉に嘘はない。だが、気持ちだけでは何も変わらない。前の世界で俺がそうだった。大手チェーンが商店街に出店してきた時、反対署名に名前だけは書いた。抗議文も出した。だが、魚屋の親父が共同仕入れを持ちかけてきた時、俺は忙しいと断った。形だけ動いて、本当にやるべきことはやらなかった。結局、何も変わらなかった。


 どこに力があって、どこに弱点があって、何をすれば動くのか。それを知らなければ、怒りは空を殴るのと同じだ。



 夕方、ゲルハルトの馬車が来た。定期便の日だった。


 荷を降ろしながら、ゲルハルトが俺の顔を見て眉をひそめた。


「聞いたか」


「聞いた。保管庫の前を通ってきた。空だな」


 ゲルハルトの顔が硬い。


「ゲルハルト。教えてくれ。ブルクハルトはどういう男だ。商会とどう繋がっている。この領地の税はどういう仕組みで動いている」


 ゲルハルトは馬車の荷台に腰を下ろし、短く刈り込んだ顎髭を撫でた。


「順を追って話す。まず、この辺境の税を決めているのは領主だ。バイエル辺境伯。だが辺境伯は実務を徴税官に一任している。ブルクハルトは三つの管区を任されていて、ハルテンとその周辺の村落を全部見ている」


「その徴税官と商会は」


「フェルゲン商会は市場街の酒と穀物の流通を握っている。商会の上納金は領主に流れる。領主にとっても商会は大事な金蔓だ。だからブルクハルトも、商会の意向を無視できない。少なくとも、これまで上から止められたことはない」


 商会が領主の財布を支え、徴税官は領主の代理として動く。なら、商会の意向がブルクハルトに届いている可能性は十分にあるだろう。


 前の世界でも同じだった。表向きは行政が動いているように見えて、裏では金を出す側が糸を引いている。


「辺境伯は、どういう人間だ」


 ゲルハルトが少し黙った。


「会ったことはない。だが噂は聞く。七大貴族の中で一番格が低い。領地は広いが実入りは少ない。他の貴族からは田舎者と蔑まれているらしい。金がないから、商会の金に頼るしかない」


 この国が大陸の西の端にあって、七つの大貴族が領地を分けていることくらいは俺も聞いていた。だが、辺境伯がその中でどんな立場なのかまでは知らなかった。


「バイエル家は七家の中で一番貧しい。領地は一番東にあって、陸の国境と、魔獣の住む大きな森と、山脈には竜の巣と呼ばれる場所まである。つまり、この国の防衛を一手に引き受けている。他の六家は海に面していて、貿易や資源で潤っている。防衛に金をかけなくていい分、裕福だ」


「辺境伯だけが貧乏くじを引いている、ということか」


「そういうことだ。防衛費がかさむから経済力では一番劣る。だから他の貴族に蔑まれる。だが、辺境伯がいなければこの国は東から崩れる。王もそれはわかっているはずだがな」


 俺は頭の中で整理した。


 商会が市場を支配し、徴税官を使って邪魔者を潰す。だが、待てよ。辺境伯と商会の関係は、二つの可能性がある。


 商会と完全に癒着しているのか。それとも、辺境伯は上がってくる金だけを見て、現場で何が起きているか知らないのか。


 国境の防衛、魔獣、竜。他の六家にはない仕事を山ほど抱えている男だ。今の情報だけでは判断できない。


 だが、もし後者なら、勝ち目がある。


 なら、商会を通さず、辺境伯に直接届くものがあればいい。辺境伯が、商会よりも価値があると判断するもの。


 村には、他にはないものがいくつもある。酒、道具、食い物。だが、どれをどう使えば辺境伯まで届くのか。それはまだ見えない。


「ゲルハルト。もう一つ聞きたい。辺境伯は商会を必要としている。だが、辺境伯がもっと欲しいものがあるとしたら。商会の優先順位は下がるか」


 ゲルハルトの目が光った。


「テッペイ。何を考えている」


「まだ何も。ただ、俺は昔、敵の仕組みを知らないまま負けたことがある。同じ失敗はしない」


 馬車の荷台に座ったまま、夕暮れの空を見た。


 三ヶ月後にブルクハルトが来る。蒸留酒の生産台帳を出せと言われている。次はもっと搾り取りに来るだろう。


 ベルントは「黙って払わん」と言った。だが、正面からぶつかれば潰される。兵士を連れた権力と、鋤と包丁しかない村が正面から戦って勝てるわけがない。


 別の道がいる。


 まだ見えない。だが、前の世界で負けた時とは違う。あの時は何もわからないまま、ただ怒って、ただ耐えて、ただ潰された。


 今は、敵の形が見えている。


 まず、知る。全部知る。


 それから動く。

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